■ 2007/02/01 12月17日 プローリス教会コンサート
プローリスはドレスデンから市電に乗って30分という距離にある新興住宅地です。プローリス教会はその地にある小さな教会で、住民の生活の中に溶け込んでいるという感じでした。いつも東京でバッハのカンタータを歌っている上荻の本郷教会と良く似た造り、雰囲気です。勿論本郷教会よりひと回りは大きいのですが、後方二階のバルコニーにオルガンが据えられているところまで同じです。午後三時から練習、五時開演という厳しいスケジュールの中、なんといっても恐ろしいのはディストラー「クリスマスの物語」です。約40分のア・カペラの作品で、同時に二つの調性で進む場面が瀕発し、さらに各パートのリズムが異なり、モテット風の曲とコラール編曲が交互に現れ、その間をこれも勿論無伴奏のソリストの朗唱が繋いで行く、という難曲、わたくしは飛行機の中でこの曲の譜面をじっくり見直してふと気付いた新しい並び方に挑戦しようと決心し、これまでの前列にS/A、後列にB/Tという配置を各パート二列で左からS/A/T/Bに変えました。ずっと練習してきた曲の並び方が変わるのは、歌い手にとっては有り難くない話であることは重々承知していますが、前後の応答より左右の応答の方が聴き手にとっては音楽の構造が分かりやすいのではないかと思ったのです。冒険は成功! この曲に限らず、プログラムは合唱、重唱ともに感じ良く流れ、アットホームな暖かいお客様の笑顔、拍手に朝の聖母教会とはまた違う感動を覚えました。
終演後二年前と同じようにドイツの素朴なクリスマス料理、お菓子、ワイン、ビール、ジュースに囲まれ、旧交を温め、新しい友人に出会ったのでした。びっくりしたのは、朝、聖母教会で私たちに付き添って下さったワルブレヒト夫人がご主人と共に来て下さり、なんとその方は日本で日本フィルでヴィオラ奏者として活躍されたワルブレヒト氏だったのです。ムシカ・ポエティカのコンサートマスター瀬戸瑶子さんとも旧知の間柄で、思い掛けない喜びに話が弾みました。ドレスデン吹奏楽団の指揮者で作曲家のシュヴァルツェ教授にもお目にかかり、先生の合唱作品、詩編と「クリスマスの物語」を戴きました。是非演奏してみたいものです。また国際シュッツ協会の年報を手に「あなたがここに載っている淡野さんですね」と話し掛けて来られた一人の男性が・・・。なんとその小冊子にはシュッツ協会日本支部の正木光江先生が、わたくしたちシュッツ合唱団の活動を報告して下さっている記事が掲載されていました。まことに真摯な深い愛情を、作曲家シュッツ、彼の音楽、そしてわたくしたちの活動にも注いで下さっておられる方々が、実にさまざまなところに居られるのだ、ということを実感したひとときでした。尚、フーゴー・ディストラーについては、12/9/06 SDGの解説で触れていますので、ご興味をお持ちの方はどうぞご覧ください。
■ 2007/02/02 12月18日(月)ライプツィヒへ
バスでライプツィヒへ。あっという間の移動でした。ライプツィヒはドレスデンと異なり街はまだ多くの場所がなかば崩壊、という感じでしたが、ヨーロッパ一の終着駅ライプツィヒ中央駅は、これは凄いものです。20数番線の列車が各国、各方面へ向けて出発すべく同一平面上に並んでいます。その下の階はモール、レストランなどなど、ここで日常のほぼすべての品が手に入ります。
わたくしたちはまずメンデルスゾーン・ハウスを見学しました。ここはメンデルスゾーンの住処でしたが、荒廃がひどく、心を傷めたクルト・マズーア氏が復興を呼び掛け、世界中の善意が実って今は清潔に保存されています。メンデルスゾーンは裕福で教養のある家庭に生まれ、幼いころより見るもの、聴くもの、会う人、話す人すべて第一級、という環境に育ちました。史上稀に見る清冽な人柄に加え、彼の音楽は、パレストリーナ、バッハ、ヘンデルらの作品に学んだ堅固な基礎の上に、まっすぐな眼差しで、現実よりやや遠くを見るといった親しみやすい叙情性を湛えています。ただ彼の死後その作品が演奏されるにあたって、時代は後期ロマン派へと向かい、その演奏スタイルが、本来メンデルスゾーンの音楽の持つ古典性がくずれて行く方向へ進んだことが災いし、真価が発掘されまでに百数十年が経過しました。ピリオド楽器の研究とその使用もバロック期の音楽に留まらず、古典派から初期ロマン派にかけての音楽を洗い直してくれることでしょう。
展示されていた楽譜のひとつに、<エリア>第二部の冒頭、ソプラノ・アリア「Hoere, Israel イスラエルよ、聴け」があり、その始まりの fis 音は当時の名歌手ジェニイ・リンドの最も美しく響く音だったことから、彼女のために fis からの歌い出しになった、という説明でした。
さてこの日はこの街の改革派教会(LEIPZIG Ev.REFORMIERTE KIRCHE)でコンサートです。ここは当時メンデルスゾーンが会員として礼拝に通っていたという教会です。
■ 2007/02/03 大森雄治(淡野弓子宛の通信)・中村誠一・小西久美子によるドイツ演奏旅行記
いよいよこの旅行の最終目的地ハイルブロンへ。その前に合唱団メンバーによる記録をご紹介致します。テナーの大森さんは、奥様のソプラノの純子さん、ご長女の恕(ゆき)さんと一緒に参加されました。
■ 2007/02/04 2月4日 ミネアポリスより たんのゆみこ
ミネアポリスで誕生日を迎えました。東京とは15時間の時差がありますので、その分、得をしたのかしら? 日曜日なので教会へ。Keith と桃子夫婦の通う聖アンドリュウ・ルーテル教会です。大きな教会で前面の壁のすべてはオルガンのパイプ、両サイドの三分の一ほどは大きな天井までのガラスで外の景色が見えます。なんといってもミネアポリスの特徴は、大方どの地点に立っても真っ青な空が360度見え、そうでなければ、真っ白い雲がまことに勇壮な姿でゆったりと動き、数百メートル行くと湖、また湖という東京人にとっては立っているだけで有り難い気分になる場所です。その景色に包まれての礼拝です。向かって左に大人のクワイア、右に子供のクワイア、オルガンに加えてグランド・ピアノが二台左右に置かれ、それでもまだ広々した祭壇、毎日朝から晩まで礼拝や行事の詰まった教会です。聖餐はボーイスカウトの少年たちのリードに従って一人ひとり前へ進み、牧師からパンを、アシスタントの人からぶどう酒を貰います。牧師が大きな食パンを丸ごと手にし、ひとりひとりにちぎって分けてくれます。このようなパンの配餐は初めての体験でした。わたくしがパンを戴く前に桃子に抱かれた茜の額に牧師が指で力強く十字を切って下さり、そののち、わたくしのためにパンがちぎられ、それを口に、そしてぶどう酒を含んだ瞬間、得も言われぬ祝福に包まれ、思わず涙が・・・。因みに茜の父方の祖父はフィンランドの、祖母はスウェーデンの人、その二人から生まれた Keith と日本人の桃子が結婚して生まれた茜には三か国の血が流れています。血脈の祖先はもとより、遠い国の遥かな祖先ともひょんなことから繋がりが生まれるこの世の不思議もさることながら、イエス・キリストの聖餐に与ることによって、われわれ人間たちにも「霊の一致」という奇しきわざの恵みを与えられるのです。何回となく迎えた誕生日でしたが、今日ほどの喜びは初めてでした。
桃子は「Don Giovanni」の Donna Anna と「Figaro」の Susanna の役で、去る1月23日から3月末までほぼ毎日リハーサル、その後 6月23日まで本番という飛んでもないスケジュールで(http://www.jeunelune.org/season/)(http://www.jeunelune.org/season/production.asp?articleID=49) 茜にお乳をやりながらがんばっていますので、わたくしも色々な方々のご理解とお許しを戴いて、赤ん坊の世話をしにここへやって来たのです。しかし明日5日にはもう帰りの飛行機に乗らねばなりません。東京での活動はまたすぐにお知らせ致します。それとドイツ旅行記もあと一日分残っておりますので、こちらもがんばります。今日は個人的な話になってしまいましたが、最後までお読み下さいまして有り難うございました。
■ 2007/02/18 2月15日-18日・ハイルブロン!!
零下24度のミネアポリスから帰ってきますと、成田は17度ということで、汗だくで荷物を受け取りました。その足でアンサンブル・アクアリウスの練習場へ。2月17日は「初めてのコンサート」なのです。それから毎日さまざまなことに忙殺され、今やっとハイルブロンのお話を。
ライプツィヒからハイルブロンへのバスの中で「クリスマス・オラトリオ」合唱部分を最後まで通して練習出来たのは幸いなことでした。カトリンさん、阪上さん、そしてバスの運転手さん、ご辛抱下さり本当に有り難うございました。到着後ホールでハイルブロン・シュッツ合唱団、オーケストラ、そして指揮者ミヒャエル・ベッチャーさんと再会を喜び合い練習に入りました。東京での合同公演の時のように、シュッツ合唱団・東京のメンバーは一人ひとりバラバラになってハイルブロンの方々の中に混ざる、という立ち方です。一晩で一部から六部まで歌ってしまうので、テンポはやや速めです。教会とは全く異なる響きの中で、その場に慣れる、お互いを知る、感じる、ということで前日の練習は終わりました。
演奏会当日の朝、ハイルブロン市庁舎で市の歓迎会がありました。市庁舎の前の広場で、「わたしを覚えている? マルガよ、マルガ・アンダソンよ」と話しかけてきた一人のドイツ人女性がいました。なんと、およそ三十年前、わたくしがアメリカのワシントンD.C.で指揮をしていた「ワシントン・ゼンガーブント」というドイツ系アメリカ人たちの混声合唱団で歌っていた人でした。東京からシュッツ合唱団が来るというので、もしやと思い、待っていたとのこと、マルガさんはたまたまワシントンからハイルブロンに里帰りしていたのです。こんなことってあるのでしょうか。マルガさんは「ああ、とても本当とは思えないわ」と何度も繰り返し、わたくしもあまりの思いがけなさに呆然としながら当時五、六歳だった桃子と太郎をあらためて紹介しました。桃子が抱いていた茜を見て、マルガさんも天を仰いでは涙を拭い・・・信じられない再会でした。
市長さんの歓迎の挨拶は、ハイルブロン市の歴史や現在の様子の紹介のあと、次のような言葉で締めくくられました。
「指揮者フリッツ・ヴェルナーは、1947年ハイルブロン・ハインリヒ・シュッツ合唱団を組織し、第二次世界大戦によって市の90%が破壊されたにも拘らず焼け残ったキリアン教会で最初のコンサートを開きました。団員は20名程、彼らはシュッツのVerleih uns Frieden gnaediglich(慈しみ深く平和をお与えください)を歌ったのでした。この曲はシュッツが1648年30年戦争が終わった年に発表されたものでした。シュッツの音楽には、彼の作品が生まれた当時と同じ意味が今なお残されています。ですから現代においてもシュッツを演奏するということは非常に重要であると思います。淡野さんがヘルフォルトでドイツの教会音楽を学び、それを日本の若い人々に伝えているということは素晴らしいことです。さらに、ハインリヒ・シュッツ合唱団・東京の皆様が日本の人々もシュッツが聴けるようにと努力を重ねておられることに大変感謝して居ります。」
御礼の言葉・淡野弓子
「昨日ここハイルブロンに着いてから、わたくしはすでに三度も泣いてしまいました。勿論、喜びの涙です。一度目は昨夜のリハーサルで二つの合唱団の声がなんの違和感もなく融け合ったとき、二度目はつい今しがた、ワシントンD.C.でゼンガーブントのメンバーで、ハイルブロン出身のマルガさんに三十年ぶりにばったり出会ったとき、三度目は、たった今、市長さんが、フリッツ・ヴェルナーとハイルブロン・シュッツ合唱団が Verleih uns Frieden gnaediglichを第一回のコンサートで歌ったということを知った時です。」
実は市庁舎のレセプションで一、二曲歌うように、との連絡を受け、わたくしたちが用意していった曲は他でもない Verleih uns Frieden gnaediglich だったのです。わたくしたちはこの曲を歌いました。ウエストファリア条約(1648)以来350余年、ハイルブロンを見守り、東京にも眼を向けている「シュッツ」という存在の深さを感じ、もう一度泣きそうになってしまいました。
その夜のコンサートの様子は団員からのレポートで十分にお分かり戴けたことと存じますので、ひとまずここで旅行のご報告を終わります。
P.S. 昨夜(2/17)お蔭様でアンサンブル・アクアリウスの初めてのコンサートを無事終えることが出来ました。椎名雄一郎さんのオルガンとともに歌ったラインベルガーの<ミサ曲イ長調>、安芸彊子さんのピアノ伴奏で歌った橋本国彦の<川>が好評だったようです。メンデルスゾーン・コーアも伸び伸びと楽しく歌いました。