零下24度のミネアポリスから帰ってきますと、成田は17度ということで、汗だくで荷物を受け取りました。その足でアンサンブル・アクアリウスの練習場へ。2月17日は「初めてのコンサート」なのです。それから毎日さまざまなことに忙殺され、今やっとハイルブロンのお話を。
ライプツィヒからハイルブロンへのバスの中で「クリスマス・オラトリオ」合唱部分を最後まで通して練習出来たのは幸いなことでした。カトリンさん、阪上さん、そしてバスの運転手さん、ご辛抱下さり本当に有り難うございました。到着後ホールでハイルブロン・シュッツ合唱団、オーケストラ、そして指揮者ミヒャエル・ベッチャーさんと再会を喜び合い練習に入りました。東京での合同公演の時のように、シュッツ合唱団・東京のメンバーは一人ひとりバラバラになってハイルブロンの方々の中に混ざる、という立ち方です。一晩で一部から六部まで歌ってしまうので、テンポはやや速めです。教会とは全く異なる響きの中で、その場に慣れる、お互いを知る、感じる、ということで前日の練習は終わりました。
演奏会当日の朝、ハイルブロン市庁舎で市の歓迎会がありました。市庁舎の前の広場で、「わたしを覚えている? マルガよ、マルガ・アンダソンよ」と話しかけてきた一人のドイツ人女性がいました。なんと、およそ三十年前、わたくしがアメリカのワシントンD.C.で指揮をしていた「ワシントン・ゼンガーブント」というドイツ系アメリカ人たちの混声合唱団で歌っていた人でした。東京からシュッツ合唱団が来るというので、もしやと思い、待っていたとのこと、マルガさんはたまたまワシントンからハイルブロンに里帰りしていたのです。こんなことってあるのでしょうか。マルガさんは「ああ、とても本当とは思えないわ」と何度も繰り返し、わたくしもあまりの思いがけなさに呆然としながら当時五、六歳だった桃子と太郎をあらためて紹介しました。桃子が抱いていた茜を見て、マルガさんも天を仰いでは涙を拭い・・・信じられない再会でした。
市長さんの歓迎の挨拶は、ハイルブロン市の歴史や現在の様子の紹介のあと、次のような言葉で締めくくられました。
「指揮者フリッツ・ヴェルナーは、1947年ハイルブロン・ハインリヒ・シュッツ合唱団を組織し、第二次世界大戦によって市の90%が破壊されたにも拘らず焼け残ったキリアン教会で最初のコンサートを開きました。団員は20名程、彼らはシュッツのVerleih uns Frieden gnaediglich(慈しみ深く平和をお与えください)を歌ったのでした。この曲はシュッツが1648年30年戦争が終わった年に発表されたものでした。シュッツの音楽には、彼の作品が生まれた当時と同じ意味が今なお残されています。ですから現代においてもシュッツを演奏するということは非常に重要であると思います。淡野さんがヘルフォルトでドイツの教会音楽を学び、それを日本の若い人々に伝えているということは素晴らしいことです。さらに、ハインリヒ・シュッツ合唱団・東京の皆様が日本の人々もシュッツが聴けるようにと努力を重ねておられることに大変感謝して居ります。」
御礼の言葉・淡野弓子
「昨日ここハイルブロンに着いてから、わたくしはすでに三度も泣いてしまいました。勿論、喜びの涙です。一度目は昨夜のリハーサルで二つの合唱団の声がなんの違和感もなく融け合ったとき、二度目はつい今しがた、ワシントンD.C.でゼンガーブントのメンバーで、ハイルブロン出身のマルガさんに三十年ぶりにばったり出会ったとき、三度目は、たった今、市長さんが、フリッツ・ヴェルナーとハイルブロン・シュッツ合唱団が Verleih uns Frieden gnaediglichを第一回のコンサートで歌ったということを知った時です。」
実は市庁舎のレセプションで一、二曲歌うように、との連絡を受け、わたくしたちが用意していった曲は他でもない Verleih uns Frieden gnaediglich だったのです。わたくしたちはこの曲を歌いました。ウエストファリア条約(1648)以来350余年、ハイルブロンを見守り、東京にも眼を向けている「シュッツ」という存在の深さを感じ、もう一度泣きそうになってしまいました。
その夜のコンサートの様子は団員からのレポートで十分にお分かり戴けたことと存じますので、ひとまずここで旅行のご報告を終わります。
P.S. 昨夜(2/17)お蔭様でアンサンブル・アクアリウスの初めてのコンサートを無事終えることが出来ました。椎名雄一郎さんのオルガンとともに歌ったラインベルガーの<ミサ曲イ長調>、安芸彊子さんのピアノ伴奏で歌った橋本国彦の<川>が好評だったようです。メンデルスゾーン・コーアも伸び伸びと楽しく歌いました。