■ 2008/11/05 秋も深まり・・・
9/19のコンサートの総括をしないうちに、11/7の<レクイエムの集い>の準備に突入し、またまた大変な日々を送ってしまいました。ご無沙汰をお許し下さい。
今年はアイルランドからショーン・ライアンさんという笛の名人がホイッスルを聴かせて下さいます。共演はお馴染みの守安功さんと雅子さんです。アイルランドに伝わるラメントについて、守安さんが解説を書いてくださいました。そこにはさまざまな「死」の理由、状況が詳しく説明されていました。例えば、 ・敗戦の指導者の死 ・自らの死期を悟った作曲家が自分で作ったレクイエム ・泳ぎを知らぬ人々の溺死 ・出征する兵士を見送る女たちの訣れの歌 ・圧政のもとで起こった多くの人々の死などを隠喩を用いて歌う歌 ・処刑死 ・毒殺された悲運の指導者 ・死の瞬間の音楽 そして全世界の目の前で崩れ落ちたあのツイン・タワー・・・などなどです。
以前演奏したことのある柴田南雄作曲<人間と死>にも、人の遭遇するさまざまな「死」の状況が、これまた多岐に亘る古今の、また色々な国の文学から集められていました。その一シーン毎の、見知らぬ黄泉の国へ引きずり込まれるようなテキストを読むだけでも膨大なエネルギーを要し、「死ぬとはなんと大変なこと」と思い知らされたのを覚えています。
当日のプログラムは、バロック期からついこの間起こった出来事までが網羅されたもので、ホイッスル、フルート、コンサーティーナ、ハープが曲ごとに編成を変えて登場します。ショーンさんは歌も歌われます。
さてこのコンサートにはベルギーからテノールのツェーガー・ファンダステーネ氏もお見えになり、シュッツとバッハを歌って下さいます。シュッツが結婚6年目に最愛の妻を喪った時の哀悼歌、葬送のコンチェルト、それにバッハのカンタータ第8番「最愛の神よ、我の死するはいつ?」です。このカンタータ8番は非情なる「時」と、揺れ動き、迷いを主食とする我らが人間の「生命」を描いた傑作中の傑作! 「カンタータ8番を聴かずして生死を、また音楽を語るなかれ」と申し上げたいほどの、麗しくも冷酷な世界と「信ずること」の奇跡が歌い奏されます。
ジャンルの異なるものが組み合わされているプログラムですが、異種配合によってのみ立ち昇る薫りに期待しています。どうぞお時間がおありでしたら東京カテドラル聖マリア大聖堂へお越し下さい。11/7金 午後7時開演です。・・・S席:Sold out とのことですが、A席には余裕があります。
ファンダステーネ氏は前日の11/6木 午後7時より浜離宮朝日ホールでシューベルトの<冬の旅>を歌われます。ピアノはドイツからお見えになったシュテファン・ズィーバス氏、それに海老沢敏氏のお話があります。残席有りますので、こちらへも是非。
<冬の旅>連絡先:045-870-4771(T) 045-870-4772(F)
■ 2008/11/15 <レクイエムの集い>
11/7 金 カテドラルでのコンサートが無事終了致しました。午後2時過ぎ、ショーン・ライアンさんと守安夫妻のリハーサルが始まりました。ライアンさんのホイッスル、それは30cmほどの細くて、煙管ほどの黒い「管(くだ)」でしたが、ライアンさんの身体を通過した空気が吹き込まれると、深々としていながら澄んだ光のような、哀しげでありながら優しく、人類の思いをすべて包括したような、大地と天が結ばれたような音が聖堂内をゆっくりと回遊したのです。
その第一音で私は安堵しました。一番心配だったプログラム、シュッツ→アイルランド→シュッツ→バッハ→アイルランド は恐らくなんの疑問も残さずに繋がり、大きな一つの手から注がれた天からの贈り物のように私たちを包むに違いない・・・・
■ 2008/11/25 バッハ・カンタータ140「目覚めよ、と呼ぶ声あり」
2008年11月23日は、教会暦でいうと三位一体の祝日後第27の日曜日です。バッハの教会カンタータはこの教会暦に沿って、その日に定められた聖書の朗読箇所を解釈し、音楽によるメッセージとして作られたものです。三位一体の祝日はその年の復活祭から数えて8週目の日曜日で今年は5/18でした。三位一体の祝日後第一の日曜日(5/25)から降誕祭から4週遡った待降節第一日曜日(11/30)の1週前の日曜日(11/23)までの日曜日を今年は27回迎えました。
長々しい前置きとなりましたが、私の言いたいのは、この第二七の日曜日というのはその年の復活祭の日付によって迎えられたり迎えられなかったり、微妙なラインだということなのです。ですから、第二七の日曜日のために作られたカンタータは、教会暦に沿って演奏しようとしても、出来ない年があるのです。そう、有名なバッハ・カンタータ第140番は三位一体の祝日後第27の日曜日のための曲なのです。無論このような暦を無視して名曲路線を貫けば毎日だって演奏出来ますし、それも一つの曲に対する愛情表現ではあるのかも知れません。しかし各日曜日に朗読される聖書箇所は毎回異なり、バッハはその言葉を軸に作曲しているのですから、単に名曲や人気の曲のみに関心を寄せるのは勿体ないと思うのです。バッハがその聖句から何を感じ取ったか、何を重大と思い何を無視したか、を探ることは、演奏解釈の根幹だと思います。ここから音色やテンポ、フレージング、アーティキュレイションなどが明らかになってきますので、範例は多いほど良いと考える次第です。
日本のように、キリスト教というと「クリスマス」ぐらいしか思い浮かばない国にあって、教会暦に沿ったという活動がどういう意味を持つか、はまた別の議論の場に譲るとして、演奏の現場では、暦は非常に有効であり良い働きをしています。キリストの生誕を基準とした西暦何年、という表示に始まり、重要人物の生誕何年、没後何年は常になんらかの記念行事が行われています。年間の行事でもクリスマス、受難節、復活節、聖霊降臨祭、そして今日のテーマである三位一体の祝日にはバッハに限らず数多の素晴らしい作品が遺されていますし、キリストの生涯とは直接関係がありませんが、11/2 の万霊節はレクイエムにふさわしく、またその年の教会暦最終日曜日(因に教会暦最初の日曜日は待降節第一の日曜日)は永眠者を記念する日、と定められています。教会音楽は、バッハのロ短調ミサは例外ですが、そのほとんどが機会音楽なので、常になんらかの行事と関連しています。
さて、実に長々しくくどい文章になってしまいましたが、本当に言いたかったのはただ一つ、今度の土曜日11/29土6時のSDGのひとときは、バッハの教会カンタータ第140番「目覚めよ、と呼ぶ声あり」に捧げたいのです。そして、教会暦最後の永眠者を記念する日でもありますので、シュッツの「死者は幸いなり」も歌いたいと思います。どうぞ皆様、お時間とご興味がおありでしたら、是非東京上荻の本郷教会にお出かけ下さいませ。
サイトのトップ画像は、このカンタータ140の歌詞を題材とした蘆野ゆり子のカリグラフィーです。11/23から1週間掲載されますので併せてお楽しみ下さい。