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ムシカWeb通信


■ 2009/02/02 バッハ・カンタータ第200番

 すっかりご無沙汰致しました。太郎の<冬の旅>(1/23)が終わるまで、自分が歌うより気疲れがひどく、その上右脚に怪我(1/16)をしまして、ほとんど白昼夢の二週間でした。

 怪我、というのは私の乗っていた自転車と一方通行を逆に走って来た自転車が衝突、相手の中学生が無傷だったのが不幸中の幸いでしたが、私は落ちた途端に右脚が宙を舞い、右膝靭帯損傷、右足首剥離骨折という、もし西洋医学の病院に行っていたらギブス、入院という顛末だったとのことです。事故直後に、普段からお世話になっている整骨院の院長先生に診て戴き、鍼、マッサージ、カイロプラクティックという治療を毎日受け、お蔭様で日一日と回復し、あと数日で治る、というところまで漕ぎ着けました。また転ぶ、ということのない限り、もう大丈夫ですのでご安心下さい。

 やっとblogを書く気になったのは、昨2/1(日)の午後に初めて聴いたバッハのカンタータ200番に天国的喜びを感じたからなのです。2/2はマリアの潔めの日、という祝日で、男の子を生んだ母親は40日目に潔めが必要であるという旧約の教えに従って、マリアがイエスを抱いて神殿に詣でた日なのだそうです。この祝日のためにバッハは83番、125番、82番のカンタータを遺しています。1924年、1曲のアリアが発見され、1935年に多分消失したカンタータの1部であろうという公式の認定が下され、さらにテキストの内容からいって恐らく2/2のための曲であろうということになって、J.S.バッハの教会カンタータ第200番という席を与えられたのです。このアルト・アリア1曲、というカンタータを今週の土曜日2/7に、やはり2/2のためのカンタータ83番と一緒に演奏することとなりました。昨日の午後の練習で、永島陽子さんのアルト、二宮昌世さんと小穴晶子さんのヴァイオリン、大軒由敬さんのチェロ、瀬尾文子さんのオルガン、淡野太郎の指揮によってこの譜面が音となりました。

 アリアは<Bekennen will ich seinen Namen 私は彼の御名を信じ告白したい>という言葉で始まります。内容は、救い主を見るまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた老預言者シメオンの讃歌です。シメオンはマリアと共に宮詣でに来たイエスを見て「これぞ救い主、イスラエルの民のみならず、全人類の救い主」と直感します。彼はイエスを腕に抱き「もういつでも喜んで御もとに参ります」と神を賛美します。

 ヴァイオリン2挺による2重奏のオブリガートが通奏低音とともに始まります。なんとも愛らしい旋律で、シメオンが腕の中の赤ん坊の顔を見ては嬉しくなって天を見上げる、といった情景が眼の前に広がります。アルトも快活でありながらなにか沁みじみとしたものを感じさせる物言いで「彼こそはわが生命の光」と歌い上げるのです。

 この日の楽器は、ヴァイオリンが2挺とも谷口勤さん制作のバロック・ヴァイオリン、大軒さんもバロック・チェロで「成る程」という響きでした。この曲は録音もありませんし、殊更にこの曲のみが演奏されるということもないような気がします。勿論7日に演奏されるもう1曲、第83番も驚くほどの名曲、このカンタータの第2曲でも<シメオンの讃歌>が聖書の言葉そのまま・・・「Herr, nun laessest du deinen Diener in Friede fahren 主よ、いまこそあなたは、この僕を安らかに去らせてくださいます。」・・・に歌われます。驚くべき音楽が男声のパート・ソロによって展開します。バッハの徹底性、シメオンに成り変わったかのような強い信仰、音楽的冒険のスピリットをご堪能戴けることでしょう。バッハ・ファンの方々にとっては「聴きのがせない」機会、是非2/7(土)午後6時には上荻の本郷教会(杉・上荻4-24-5)にお出かけ下さい。無料です。


■ 2009/02/13 バッハ・カンタータ144

 去る2/7のSoli Deo Gloria、バッハのカンタータ83番と200番は実にほのぼのとした可愛らしい音楽でした。人が「もう死んでもよい、思い残すことはない」といえるほどの喜びに包まれる状況というものは、そう簡単にはやって来ないでしょう。さらにそのような喜びを音楽で表現するということになると、先ずは作曲する人、演奏する人、聴く人がいて、初めてその喜びが私たちの心と身体に伝えられるのですから、思えば気の遠くなるような話です。

 老シメオンがイエスを腕に抱いて「もう死んでもよい」と言ってから2000年、ルカがその様子を記し、さらにこの日を教会で祝おうと決め、教会と信徒は毎年その祝日を守り、バッハが生まれ、この題材でカンタータを書くことになり、その譜面を無くさないように管理した人々がいて・・・いや、カンタータ200番の方はアリア1曲しか残っていなかったのでしたが・・・、読みにくい古文書を解読して印刷譜にしてくれた人がいて、その曲を奏いてくれる人、歌ってくれる人がいて、わざわざ聴きに来てくれた人がいて老シメオンの喜びは私たちの喜びとなりました。シメオンがお宮参りに来た生後40日のイエスを「救い主」と直観しなかったならば・・・? 

 人の思いを超えたところに神の御旨がある、とは明日のカンタータ144番のテーマです。あるぶどう園の主人が、各労働者の労働時間の長さを無視して同じ賃金を払ったため、長く働いた者が不公平ではないか、と文句を言った話です。主人は「自分の分を取ったらさっさと行け!」とこの労働者の不平をはねのけます。バッハは冒頭の合唱をこのテキストでフーガに仕立てており、「さっさと行け=gehe hin」という言葉に二つの音型を与え、徹頭徹尾この言葉に固執し、問答無用の状況を映し出します。こういうときのバッハのねちっこさは特筆に値します。

 続くアルトのアリアも「murre nicht=ブツブツ言うな」との言葉で始まり、この歌の隙を狙うように、器楽が8分音符6個を同音で奏く、という音型がしょっちゅう出てくるのです。この音型は誰の耳にも「ブツブツブツ」と聞こえ、思わず吹き出しそうになります。このアリアは羽鳥典子さんが歌います。

 明日2/14、杉並区上荻4-24-5 本郷教会において 午後6時よりローゼンミュラーのカンタータ<神はその独り子を給うほどにこの世を愛された>とシュッツの<神の御旨が常に現れますように>、そしてバッハ・カンタータ144番<おのが分を取りて去れ>を演奏の予定です。ご参会を心よりお待ち申し上げます。


■ 2009/02/23 右脚は日に日に軽く・・

 ご心配をお掛けしておりました脚の怪我、御蔭さまで2/17火曜日、負傷後初めて杖なしで外出、まだ走れませんので、信号が点滅し出した時はちょっと恐かったのですが、平地だったら大丈夫との自信を得ました。階段の降りは右脚から降りその段に左脚を揃えてからでないと次の一歩を踏み出せませんが、昇りは左右交互に脚を出せます。渋谷での昼食会の後、銀座で買い物をして一旦帰宅。夕方、お借りしていた杖とお世話になった三人の先生に苺を持って鷺宮の整骨院へ。

 整骨院の院長、阿部先生の治療は、腕もさることながらその「声」と「言葉」で病は50%治るという感じなのです。まず「こんにちは」と玄関を開けると全身に気の通った深いバリトンで「生きる喜び!」という言葉が返ってきます。ここで単に黙って治療を受けよう、という受け身の患者の気分が「がんばって直そう、直すぞ」という積極的な気持ちに変わり「痛い、痛い、いたーーーい」という声も自分で驚くほどの高音域、「わめく」という行為ひとつにも気合いが入り、明らかに元気が漲って来るのが分かります。  

 「私は40年治療をしているが、こんなに回復の速い人は初めてだ。」

 「嘘でしょう?」

 「ところでどうやったたら僕のヴァイオリンはうまくなるのでしょう?」

 「うまく弾こう、と思うから駄目なんですよ」

 「うわー、参った! そーか、分かったぞ」

 私はまだ阿部先生のヴァイオリンを聴く機会に恵まれませんが、日曜日の午後は老人ホームで、お年寄りに「懐かしのメロディ」を弾いておられるとのことです。

 いつもは治療が終わると膝と足首を包帯でぐるぐる巻きにされるのですが、この日はメンソラのような薬をすりこんだだけで放免。久しぶりにぐっすり眠りました。

 脚の不自由な一ヶ月、今まで気の付かなかったこと・・・筋肉の相関関係など・・・を多々知らされ、皆様のご親切に甘え、とても豊かな気持ちで過ごせたように思います。有り難うございました。


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