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ムシカWeb通信


■ 2015/05/04 5/1公演プログラムより

 岡本かの子『狂童女の戀』<人形・歌・朗読の夕べ>

 [ユトロ]とともに———解題———メロン・糸玉・びいる樽

                        淡野弓子

 どのような言葉がどのような音型で表現されるか、といったことに興味を抱き、主にドイツ語で書かれた作品の研究に半世紀を費やしてしまった私は、ある日いつまでも生命があるわけではないという当たり前のことに気付き、日本語の研究を始めなければとあせった。

 しかし、いわゆる日本歌曲と呼ばれる歌を繙いてみると、言葉の意味や内容が旋律やリズムと一致しているとは言い難い歌が多く、正直日本語で歌うことには抵抗があった。イタリア語やドイツ語の方が歌い易いのは何故、ということを考えている間にまた時は過ぎていった。

 だが、これがいわゆる「語り物」というジャンルに入ってくると日本語は俄然生気を帯びる。ある日ふと気付いて小説を、半ば歌うような、時には話すような調子で語ってみるとなかなか面白い。以前より興味のあった岡本かの子(1889-1939)の書いたものは私の実験にかなりピッタリの材料であった。簡単に言うと、頭で考えて出て来た言葉というよりは、かなり意識の深い層から本能の趣くままに筆が走った文章なので、「歌」との相性が良く、またマニアックな語り口や、溢れんばかりというかいささか暑苦しい言葉数の多さも歌心を誘う。

「ユトロ」、ポーランド語で「あした」という意味の名前を持つ人形に出会い彼女とのコラボレーションを夢見た私が、台本となる物語を探す段となって迷わず眼の前に積んだのは『岡本かの子全集』(ちくま文庫)であった。ユトロのような少女の出て来る話を探していると「狂童女の戀」が見つかった。北原白秋を思わせる詩人西原北春が「きちがひの女の児に惚れられた話をしませう。」と語り出すところからこの短編は始まる。不思議なことに読めば読むほど狂童女とユトロはピタリと重なった。これだ! 妄想は確信に、夢は現実となって転がり始めた。

 旧家に生まれた岡本かの子の周りには、古い血のもたらす精神的な疾患に冒された多くの人間がいたらしい。かの子の目が世間的には負のイメージに傾くいわゆる弱者に注がれ、何ごとかが彼女の唇から漏れると、その弱者は通常の何倍もの光に包まれ、普段からは想像も出来ないような麗しい存在に変貌する。筆力は無論のことであるが、かの子には異形を慈しむ心があった。

 物語の語り手「私」はある日メロンを抱えてこの詩人を訪ねる。夕日があまりに綺麗だったので、見惚れながら坂を降りてくると途中でつまずき手に持っていたメロンがコロコロと坂から転げ落ちてしまう。メロンは谷へ落ち、とうとう見つからなかった。問題のこの坂で、詩人は狂童女に見染められ、「ころがせ、ころがせ、びいる樽とめて、とまらぬものならば赤い夕陽の、だらだら坂をころがせ、ころがせ、びいる樽。」との童謡を作ったのだ。

 この童謡を詩人西原北春は口ずさみながら、「酔って唄いながら坂を降り自宅へ帰ったものですよ。」とも言っている。物語の終るころには彼が小さく吟ずる場面がある。これらを読む限り、びいる樽はトリックスターのようにも見えるが、「ころがせ」「とめてとまらぬ」「赤い夕陽」「だらだら坂」などの言葉は狂童女の想い、運命を、また詩人の心の内を、さらには生き物すべてにとって避けることのできぬ「死」を暗示する。実は全篇を貫く軸と言っても過言ではないだろう。今回の音楽を担当した武久源造はこの詩を用いてそれぞれに趣きの異なる六通りの歌を作った。この6曲は場面に応じてある時は寓喩的に、またある時は登場人物の心象風景として、またリアルな状況をさらに増幅するする役目として効果的に作用する。

 いよいよ詩人の家に母親に連れられた少女がやって来る。なんと九つの女の子だ。かの子は「凄い美人になりそうな・・」と書いている。少女は西原氏を凝視。母親が「何かお話をなさい。」と促すと少女は舞台の人形振りのようにこつんと一つうなずいて、「あの先生。先生はいつ、お嫁さんをお貰いになるの。先生のお嫁さんになるには、こどもじゃ、いけなくって。」との言葉が。

 とある日、メロン、びいる樽、ところがるものに思いを馳せていた私の脳裏にふと、遥か昔のクレタ島でアリアドネーが迷宮を脱出するために恋人テーゼオに渡した糸玉が浮かんだ。そうだ、モンテヴェルディの《アリアンナの嘆き》を『狂童女』のどこかで歌えないだろうか? 気が違っているとはいえ、ここまで純粋に詩人を慕う童女(しかしその想いは到底叶えられるものではない・・・)の深層に潜む原型的な心の姿を岡本かの子も感じたに違いない。ふさわしい場面を探していると詩人西原氏のこんな台詞が!

 「お前にそういわせるのは何者だ、どの魄(たましい)だ。」ここだ! 私はこの言葉のあとにモンテヴェルディのオペラ《アリアンナの嘆き》から「私を死なせて」を歌おうと決めた。

 このあとに続くかの子の筆も興味深い。「そしておかしなことには少女の顔は前に黙って西原氏を見惚れていたときも、これほど纏綿とした情緒を披瀝するときにも、筋一すじ表現を換えない。磨き出されたような美人型の少女顔は、生きた動きのない人形のようである。」

 私はこの部分を読んでから人形を狂童女にと考えたわけではない。狂童女というキャラクターと人形ユトロが自然と一つに感じられたので、主役は人形と決め、よくよく読み進めて行くとこのような表現に出くわしたのだ。いまでも不思議に思う。

 少女のその後の運命と母親の悲嘆を思い、白秋詩、山田耕筰作曲の《曼珠沙華》を最後に歌いたいと準備したが、稽古の途中で、あまりに暗くなり過ぎるので割愛することとした。ご理解、ご寛恕を戴ければ幸いである。

 序章で歌われる「バラの花よ」(1930~32のあいだ)と終章「風の中の桜」(1932)の詩の作者山川彌千枝は1918年東京大塚に生まれ、12歳で結核を発症、療養の甲斐なく1933年15歳で亡くなる。遺稿集が『薔薇は生きてる』とのタイトルで上梓された。小学校に入学したばかりのころ、彌千枝と同い歳の私の母が「弓子と同じくらいの少女の文よ。」といってオールドローズの表紙の『薔薇は生きてる』を私に呉れたのだ。この本との長い付き合いの始まりである。現在70〜90代の本好きの女性たちは皆少女のころに愛読した書物であるが、私もすぐに大好きになり、1993年に行ったリサイタルのために、武久源造さんとWong Wing Tsan(黄永燦)さんに作曲をお願いし、彌千枝の詩による幾つかの歌曲が誕生した。狂童女を知ったとき、私の心の中では彼女の真っ直ぐな気持ちがすぐに彌千枝と一つになった。彌千枝はこの世を実際に生き、狂童女は架空の少女であるが、今夕の一幕の序章と終章で彌千枝の歌を歌い、狂童女英子へのはなむけとしたい。因みに『狂童女の戀』が発表されたのは1934年、彌千枝の死後1年目のことである。

    (註:岡本かの子と山川彌千枝の接点は私の知る限り無い。)


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