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ムシカWeb通信


■ 2011/03/27 感謝!

 3/12(土)に予定されていた<賛美と祈りの夕べ・Soli Deo Gloria>は、地震後の混乱で中止のやむなきに至った。代替開催の3/19(土)は無事終了。とはいっても今日はすでに土曜日、あれよあれよと言う間に1週間が経過。今まで何をしていたのだ、と言われると、右往左往という単語しか思い浮かばない。さまざまな連絡をさまざまな人と取り合っていたように思う。ドイツからも沢山のメールを戴いた。

 19日午後2時、本郷教会にはすでに合唱のメンバーが到着していた。いつもより人数が多く、普段はまだシンとしている時間帯なのに会話の声が大きく聞こえている。オルガンの石原さんは宝塚から。お互いの無事を確認し合い合唱の練習が始まった。オーケストラのメンバーも続々と集まり、リコーダーの小俣さんも名古屋から到着。バッハのカンタータ127番《主イエス・キリスト、真の人にして神よ》を練習。

 午後6時開会。普段はヴァイオリニストとして参加している本郷教会の大野長老が聖書朗読。「涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は束ねた穂を背負い喜びの歌をうたいながら帰ってくる。(詩編第126;5-6)」同名のシュッツのモテットが歌い出される。肌を刺すような響き。シュッツは実に危機的状況にこそふさわしい。続いてシュッツ<リタニア>。歌詞は宗教改革以前の連祷をルターがドイツ語に訳したもので、先唱者が次から次へとこの世の災厄を歌い出すのを合唱が受け、「救い給え」「守り給え」と唱和する形式である。ただ一箇所「ペストから守り給え」を「原発から」と歌いたいと思ったが、その他の内容は今の日本にそのまま当て嵌まるものばかりで驚かされた。このテキストは現在のドイツ福音派の讃美歌にも収められている。

 バッハのカンタータ127番の骨子となる聖書箇所は、ある盲人が「目が見えるようになりたいのです」と言うとイエスは「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」と言われ、盲人はたちまち見えるようになった、というルカ伝18;31-43と、有名なコリント[一]の13;1-13の「たとえ山を動かす程の信仰があっても愛がなければ騒がしい鐃鉢と同じ」という愛の讃歌である。

 不可能と思い込んでいたことが信仰によって解決する盲人の逸話は、願ったことが瞬時に実現したまことに幸運な例であったが、約束の成就が死後になったとしても、未来に希望を託し祈り続けた人々がいたからこそ、信仰の伝承、愛の連鎖がこの世には存在する。我々の気持ちが外に向かって開かれるひと言、ひとこと、一音、いちおん、であった。

 いつもより多くの参会者、このところ必ず最後には器楽奏者たちも楽器を置いてシュッツの「Also hat Gott die Welt geliebt 神は(その独り子を世に給うほどに)この世を愛された」を合唱するのだが、この日も勿論皆で歌う。あとで、「聴き手も是非一緒に歌わせて」という声。感謝!


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