明日はいよいよシューマン生誕200年記念 1840年[歌の年]のコンサートです。例によって訳詞と解説の原稿書きで緊張の日々をおくりました。《女の愛と生涯》と《詩人の恋》の訳詞はすでにいろいろな方のものが活字になっていますし、無論うなるような名訳もあるのですが、コンサートで歌と一緒にお読み戴く、となるとまた別で、迷った末に今回も自分で訳すことになりました。
《女の愛と生涯》のほうは自分が歌うので、歌のリズムや抑揚と日本語の感覚を合わせることは比較的易しかったのですが、《詩人の恋》を歌われるのはファンダステーネ氏ですので、氏がどのように歌われるのか気になり乍ら訳しました。印刷所に入れる前に1度氏の演奏を聴きたかったのですが、どうしても時間が合わず、印刷所へ入れた直後に練習に駆けつけることに。
日本語が長くならないように、また原詞と訳が行毎に合っているように訳すのはなかなか大変でいつも苦労します。今回もひやひやものでしたが、自分の訳を読み乍らファンダステーネ氏の演奏を聴いてみました。彼の語調や表現と私の日本語はまずまずの調和でほっとしました。
明日の演奏を前に、以下の文をまとめました。明日お配りするのプログラムに載っていますが、一足早くここに掲載致します。明日お聴き戴けるのならそれが一番嬉しいことですが、おいでになれない方も、興味を持って戴ければ幸いに存じます。
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悲劇を超えて
〜シューマン小考
淡野弓子
今夕はシューマンの生誕200年を記念して、彼自らが「歌の年」と呼んだ1840年の歌曲を中心としたプログラムを準備致しました。
シューマンというと、先ず思い出されるのは彼の評論です。手許にある岩波文庫『音楽と音楽家』(シューマン著 吉田秀和訳)はどのページも黄茶色になり触れると破けそうです。昭和36年(1961年)発行とありますから私は23歳だったということになりますが、以来愛読しその度に元気付けられて来ました。中でも《子供のための小曲集》のために書かれたという「座右銘」はあまりに何度も読み共感してきたので、今ではシューマンの意見なのか、自分自身の考えなのか分からなくなっているほどです。中でも「悪い作品をひろめてはいけない」「悪い作品を演奏してはいけない」との言葉は、一演奏家として本気で守りたいと思ってきました。「男や女の歌手の話はいろいろためになる。けれども何もかもいわれる通りに信じてはいけない」には声を上げて笑いはするものの身にもつまされ、「恐らく、天才を完全に理解するものは天才だけだろう。」には頭を抱えますが、最後の1行「勉強に終わりはない。」に救われてきました。
シューマンがライン河に身を投げ、のちの2年間を精神病院で過ごし、そこで亡くなったことは周知の事実です。彼の悲劇は終末過程の治療にあたったリヒャルツ博士の次の言葉に言い尽くされています。「陰鬱で交際しにくく、いらだちやすく気むずかしい男が、どんな精神力でこの世と戦わねばならなかったか、はっきり想像出来る人はいないだろう。彼は自らの生命力を徐々に破壊することによって作曲していたのだ。しかもこのことは誰にも分からなかったのだ」また、気が強く前向きで、天才でありながら健康の極みでもあった妻クララと一緒にやっていくことが、どれほど彼の精神を痛めつけたことでしょう。逆の例ですが、高村光太郎と智恵子を思い出させます。
1839年、すなわち「歌の年」の1年前、シューマンは悲嘆のどん底でした。クララとの結婚をクララの父親ヴィークに相手にされなかったばかりか冷笑、憫笑といった耐え難い侮辱まで受け、「楽想が全く湧かない」「作曲は無理」とクララに訴えたとのことです。ヴィークはロバートとクララの結婚を認める条件として、法外な経済的条件を提示、この問題は1840年の1月から3月にかけ、やっとヴィークの告訴が却下され、2人は結婚へ向けて動き出します。
1840年1月からロバートの創作力は急激に勢いを増し、12年間行われなかった歌曲の作曲が再開されます。5月にはアイヒェンドルフの詩による《リーダー・クライス》Op.39、その直後にハイネの詩による《リーダー・クライス》Op.24、そして5月24日から6月1日までのたった9日間に同じハイネの詩集から20曲が作曲されました。この20曲の中から16曲がのちに《詩人の恋》Op.48として世に出ます。7月、ロバートとクララは結婚の準備に入り住む家も見つかります。この真只中、7月11日から12日にかけて一気に出来上がったのがシャミッソーの詩による《女の愛と生涯》Op.42でした。9月12日二人はついに結婚式を挙げました。1841年になるとシューマンの気持ちはシンフォニーに、さらに翌年には室内楽へと向かいます。
1846年という年はシューマンは聴覚神経に異常を来たし、あまり仕事が進まなかったようですが、合唱曲Op.55とOp.59が書かれています。1847年11月4日、シューマンの尊敬するメンデルスゾーンが亡くなり、シューマンは激しいショックに見舞われます。彼はメンデルスゾーンの指揮していたドレスデンの男声合唱団「リーダーターフェル」の指揮者となり、たちまち幾つかの男声合唱曲が作曲されます。またこの仕事を面白いと感じたシューマンは混声合唱団「合唱協会 Verein für Chorgesang」をも組織し、1848年1月からは練習も始まっています。1948年という年は「溢れ出したら止まらない」シューマンの多作期でした。それは翌1849年にも続いて行き、オーケストラ、室内楽に加えて多くの合唱曲が生まれました。
《女の愛と生涯》は、詩を書いたシャミッソー(1781-1838)の「あなただけが素晴らしい」「あなたを愛し、あなたに生きる」「選んで戴けて光栄です」といった歌詞が、独立自尊の意識に目覚めた現代女性たちから見るとあまりに現実離れしているので敬遠されがちな曲集なのですが、よく読むとこの主人公の女性は明朗闊達、キリリとしていて、好みの男性に対する物言いもはっきりとしています。迷いがなくストレートです。そしてシューマンの音楽も実に芯が通っていて毅然としています。
一方《詩人の恋》(このタイトルは楽譜出版社ペータースの命名)に用いられた詩集『抒情挿曲ーLyrisches Intermezzo』の詩人 ハイネ(1797-1856)は、矛盾に満ち、花や星、ラインの流れ、小夜啼鳥を歌いつつも、それらの醸し出す純情や真心を真正面から受け取ることをせず、皮肉っぽく一瞥するといきなりこの世の身もふたもない話を始めたりします。シューマンはハイネの描き出したこの若者に誠実に付き合い、彼を愛し慰める音を探します。クララとの結婚も間近かとあって日頃の社会批判や厭世感も影を潜め、天を舞うごときの優雅な筆致で、沸きいずる音楽を譜面に書き付け、いつ止めようかと苦心しているようにも見えるほどです。そして《女の愛と生涯》からはクララの姿が、《詩人の恋》ではロバートが浮かんでくるのもなぜか不思議です。
今夕のために選ばれた9曲の合唱曲は、ほとんどが繊細に組み立てられた和声で進み、実音もさることながら、同時に立ち昇る倍音の美しさに改めてシューマンの飛び切りの耳を感じます。
初夏の一夕、皆様と共に良い時が過ごせますように。
胸一杯の感謝を込めて。