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ムシカWeb通信


■ 2009/01/01 2008大晦日〜新年2009

 とうとう大晦日を迎えてしまいました。今夜はがんばってムシカ・ポエティカの今年一年を振り返りたいと思いますが、その前にお伝えしたいと思いながら出来なかったことを記しておきます。

 毎年11/23には社会福祉法人東京ヘレン・ケラー協会主催の「ヘレン・ケラー記念音楽コンクール」が開催されます。今年は第58回目とのことでした。昨年から審査に伺うようになりましたが、今年も大変な感銘を受けました。昨年もこの Blog に書きましたが、なんといっても会場が静かなのです。視覚障害者が演奏する時の集中度は晴眼者のそれとは全く性質(たち)の違うものであるとの認識はずっと持っていましたが、今年は聴きかたにも目を使わない聴きかたと目を使う聴きかたがあるということに気付きました。目を使わないということは、目以外の機能がすべて耳になってしまうのではと感じました。身じろぎもせず全身が耳として聴く人たちと、演奏者を目で見ながら音を聴く私たちいわゆる健常者とは、聴き取っている音の質に大きな違いがあるように思います。

その昔武久源造さんに「音楽は盲人に委せて下さい」と言われた時には実に驚きましたが、今は半分納得しています。                       

 12/13 土 本郷教会の夕べの音楽<Soli Deo Gloria>でラインベルガーのミサ曲とディストラーの室内楽と合唱の曲を演奏しました。演奏は“アンサンブル・アクアリウス”による女声合唱、オルガンは瀬尾文子さんでした。数年前からラインベルガーに親しんできた“アクアリウス”が、団発足以来の良い演奏をしたと思います。終演後メンバーが「ラインベルガーをもっと深めたい」と全員で感じたのも初めてのことでした。喜ばしいことです。

 ディストラーについては改めてゆっくりお話したいと思いますが、ここでは当日のプログラム・ノートからラインベルガーについての拙文の一部を転載させて戴きます。

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 ラインベルガー(1839-1901) は優れた音楽家であるにもかかわらず、これまで楽譜があまり出回っていなかったため、ほとんど知られていませんでした。2001年、彼の没後100年を記念して、19世紀後半に印刷された多くの教会音楽作品が再び出版され、やっとラインベルガーの音楽に触れることが出来るようになったのです。

 ラインベルガーは1839 年リヒテンシュタイン公国の君主に仕える高官の息子としてドイツのファドゥーツに生まれました。5歳の時、オルガニスト、ペーリから手ほどきを受け、7歳の時にはファドゥーツの教会のオルガニストを務め、オルガンと3声のミサ曲の作曲なども始めたとのことです。その後聖歌隊指揮者のシュムッツァーに師事、和声、ピアノ、オルガンなどの実技とバッハやウィーン古典派の作品を学び12歳の時にミュンヘンに移り、終生ミュンヘンで生活しました。

 ミュンヘン音楽院を始め、彼の才能にはすべての教師が注目し、1859年には同音楽院のスタッフに迎えられます。また教会のオルガニスト、ミュンヘン合唱協会の指揮者などに就任、有能な合唱指揮者として、とくにヘンデルの優れた解釈者として認められていました。1867年、ミュンヘン音楽院の教授となり、多くの逸材、<ヘンゼルとグレーテル>の作曲家フンパーティンクやフルトヴェングラー(本当は作曲家になりたかったとのこと)を育てます。彼のに寄せられた尊敬、人望は大変なものだったとのことで、ビューロは「仕事に対する技術と緻密さ、情熱は何人もこれに及ばない。作曲教師として最高の人、さらに音楽家として、人間としてこの世で最も優れた人物」との賛辞を寄せています。

 彼はリストやワグナーの音楽には一線を画し、自身の作風・・周到に準備されたポリフォニー、その首尾一貫性、人目を引く、というものではなくむしろ人ごみを離れたところでの思考性、に確信を持っていました。この時代精神との距離、時代を超え、場所を選ばない音楽の本質は思いがけないときにその力を発露させるのだと思います。—以下略—

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 昨夜2008年の大晦日のうちに更新したかったのですが、非情なる時に勝てず新年を迎えてしまいました。ひとまずこの項はこれで終わりと致します。

 ひと眠りして元旦の朝から2008年総括に着手します。皆様、今年もお元気で。Y.T.


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