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ムシカWeb通信


■ 2008/08/01 内尾知起君 納骨式

 7/26(土)本郷教会のSoli Deo Gloriaでは1年前に亡くなった内尾知起くんの追悼のために行われ、シュッツ合唱団がシュッツの<Musikalische Exequien 音楽による葬送>を歌いました。内尾くんは、これも改めて記すと非常に不思議なのですが、中学・高校時代を西荻北で過ごしたのでした。上荻4丁目の本郷教会は目と鼻の距離です。その後知起くんは一年ほどご両親と一緒に福岡に住んでいましたが、受験準備のため上京し、シュッツ合唱団に入団、そしてシュッツ合唱団の演奏の根拠地である本郡教会に来るようになって、図らずも「故郷で歌う」ことになったのです。

 ご両親が知起くんの納骨をお考えになられるにあたって、本郷教会墓地を希望されました。知起くんの好きだった西荻や本郷教会、幼なじみの友だちやシュッツ合唱団の歌とこれからもなんらかの繋がりが途絶えないように、という親御さんならではお気持ちからであろうと思います。

  7/28(月)午後2時、染井の教会墓地で内尾知起くんの納骨式が行われました。その式でされた廣田登本郷教会牧師の説教がひどく心に沁みました。ご両親も大変喜んでおられました。多くの方にお聴き戴きたかった、との思いから、廣田先生にお願いしてここに掲載させて戴くこととなりました。お読み戴ければ幸いです。  淡野弓子      

                                

 2008年07月28日 内尾知起さん・納骨式説教 

 日本キリスト教団 本郷教会牧師 廣田 登           

                                

 テサロニケの信徒への手紙一4章13節から14節

 ローマの信徒への手紙6章3節から11節            

                                

 内尾知起さんは、昨年の2007年7月2日に亡くなられました。お生まれが1986年8月30日でしたから、21才と10ヶ月の御生涯でした。

 知起さんは、鬱病という名の病によって病死されました。人は、若くして癌で死なければならない場合もあります。あるいは、心筋梗塞で突然亡くなることがあります。それぞれの病気によって、死を迎えるわけです。内尾知起さんも、鬱病という一つの病気で亡くなられのです。ですから、ご家族の方々に、知起さんの死について責任はありません。強いて責任ということを言うならば、それは、神の責任です。神の御心によって、内尾知起さんは天に召されたのです。神は、知起さんを余りに大きく深く愛しておられたので、若くして知起さんを神の御許に召された・・・。そう信じたいと思います。

 しかし、人間の側から考えるならば、まことに残念です。鬱病という病気の治療については、最近、急速に研究が進んでいるようです。心の病と言われていますが、それは、精神だけでなく人間の全体の病気であることを示しています。肉体を含めた、人間の人格全体の病だ、ということだと思います。特に、脳の働きとの関連で、薬によって治療出来る病気だということが分かってきています。脳の働きと関係する神経伝達物質を、薬によってコントロールして、鬱病の症状を治療することが出来るようになってきているようです。もちろん一口に鬱病と言っても、実際には複合的な病気で、さまざまなケースがあるようですから、「この薬で治る」というわけにはいかないようです。しかし正直なところ、知起さんの場合に、治療がもうちょっと何とかならなかったのか、と思わざるを得ません。

 恐らくその、脳内の神経伝達物質と言われるものの働きによると思われますが、鬱病が重くなってくると、死への強い誘惑があるようです。それは甘美な誘惑である、と表現されています。死への誘惑が、避けがたいほど甘い誘惑として襲ってくるということのようです。そのために、鬱病が重くなってくると、自ら命を絶つという道を躊躇無く選び取ってしまうということが起こる、と考えられています。「病がそうさせる」ということです。

 昨年、2007年の始めに、内尾知起さんは、「洗礼を受けたい」と牧師に申し出られました。1月6日、7日に教会では、クリスマスと新年のコンサートというのをやりました。シュッツ合唱団がご奉仕くださったコンサートです。確か、そのコンサートが終わった、日曜日の夜のことだったと思います。淡野弓子さんが、知起さんを紹介してくださる形で、申し出を受けました。正式には、初対面だったと思います。初対面ですぐに、「洗礼を受けたい」とはっきりおっしゃるのは珍しいことなので、とても印象的なことでした。

 後で、ご両親から伺ったところによれば、知起さんとしては、突然思い立ったというようなことではなかったようです。それまでに、いろいろな宗教について勉強されていた、というようなことが下地にあったようです。恐らく、病気に悩まされるなかで、宗教的な救いを求める、ということがあったのではないかと思われます。そうした中で、キリスト教についても、御自分なりに勉強していたということだったようです。

 そして、キリスト教に近づくことになったのは、シュッツ合唱団に入ったということが、大きなことではなかったかと思います。シュッツの音楽は、「聖書を歌う」というところに大きな特徴があると聞いています。さらに、「洗礼を受けたい」という気持ちになる、決定的な動機になったのではないかと思われるのは、シュッツ合唱団のドイツ演奏旅行に参加したことです。そのように、聖書を歌うところから、キリスト教に導かれるということが起こったのだと思います。         

                                

 知起さんは大学入学試験を間近にしいているということでした。しかし、受験勉強をしなければならないということではなくて、良く出来る人なので、とにかく試験場に行くことが出来れば、大丈夫なんだ。そういうふうに、淡野弓子さんから説明を受けました。そして実際に、合格されました。

 そしてとにかく、第一回の洗礼準備会を行うことが出来ました。最初に学ぶことは、人生の目的ということでした。それは、洗礼を受けてキリスト教徒になる、ということは、自分の人生の向きを、「神のために生きる」という方向に方向転換することなんだ、ということでした。神のため、キリストのために生きるようになる。それが、洗礼を受けるということなのです。

 残念ながら、洗礼準備会は一回だけしか、行われませんでした。その時には、必ずしも客観的に判断することは出来ませんでしたが、どんどん病気が重くなってしまったということだったのだと思います。大学を一年間休学して養生することにしましたが、結果として、2007年7月2日という時を迎えることになってしまいました。

 内尾知起さんは、洗礼を受けるということに、はっきりとした意思を持っておられた。その「洗礼を受けたい」という意思を教会に申し出ておられた。それで、私たち教会は、内尾知起さんを、洗礼を受けた一人の教会員として遇しているのです。それで、知起さんのご両親に、この聖書の言葉を差し上げたいと思います。パウロが、ご両親に向けて書かれたのではないか、そう思われるような言葉です。

 テサロニケの信徒への手紙一4章13節から14節 

 4:13 兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。 4:14 イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。

 ローマの信徒への手紙6章3節から11節

  6:3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。 6:4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 6:5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。 6:6 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。 6:7 死んだ者は、罪から解放されています。 6:8 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。 6:9 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。 6:10 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。 6:11 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

 祈ります。

 全能の神、恵みと憐れみ豊かな主よ。あなたは主イエス・キリストが甦られた時、「なぜ生きた方を死人の中にたずねるのか」と御使いによってお告げになりました。今わたしたちは、内尾知起さんの遺骨を葬るに当たって、内尾知起さんが主のみ国によみがえることを信じ、いつくしみ深いみ手にゆだねます。どうか私たちに、主によって永遠のみ国に相まみえる日を望ませてください。主イエス・キリストの御名によってお願い致します。アーメン


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