4月29日夜<フィガロ>の初日が明け、桃子は上機嫌で帰って来ました。ほっと大きな息をついたところです。ミネアポリス、ボストンと60〜70回の公演を経た演し物とはいえ、初めての土地で初めてのお客様を前にどれほどの緊張だったことか。この日までの2週間は、演出家を始め一座全員が一触即発状態でリハーサルの毎日、特に桃子にとっての初体験は自分の「代役」なる若い歌手の存在でした。1週間8回公演1日休み、という信じられない頻度での舞台のため、8回公演のうち3回は代役に代わるとのこと、この若い歌手たちは勿論初めての舞台ですから、一から手とり足とり教えなければならず、この後輩を教えるということの難しさがまたひと通りのものではなかったようです。
大成功の初日を終え、昨夜の二日目も終り、非常に良いレヴューが出ていたので読んでいたら、もの凄い音の警報がその名も麗しい<FINE ARTS>という私たちの住処であるアパートメント中に響き渡りました。夜中の1時になろうかという時です。私は誤作動だと思っていたので「ああうるさい。早く止まないかしら」と耳をふさいでいました。桃子は寝ている茜を毛布でくるみ、リュックを背負うと「こういう時は全員外へ出なければいけないの」といって「大丈夫じゃない?」という私を叱りつけ、「エレヴェーターは危ない、階段で」と言い、5階からどんどん下へ。いろいろな人が少しずつ降りて行きます。道に出るとすでに多くの人が道の反対側から心配そうに建物を見上げていました。本当に火災警報だと知ったのは、消防車が到着し、煙の出ている部屋が見えた時です。ガスにお鍋をかけたまま外出したとのこと、私自身もやりそうなことなので、いい教訓でした。
はからずも真夜中にアパートメントの住人全員が顔を揃えたわけですが、本気で怒っている人は1人もいませんでした。<フィガロ>の舞台を終えた歌い手が、大スターも小スターも全員パジャマ姿で集まったのも可笑しかったです。消火が終わり部屋に帰ってよいことになりました。この間40分位だったでしょうか。桃子に抱かれた茜は終始落ち着いた表情で、代わる代わる覗き込む大人たちをじっと見ていました。 Y.T.