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ムシカWeb通信


■ 2007/09/29 声楽から朗誦へ  松浦のぶこ

 <第三回ムシカ・ポエティカ公開講座>では指導陣、受講陣、聴講陣が一つとなって充実の時を体験することが出来ました。またいつものことながら、廣田牧師をはじめ本郷教会の皆様には、深いご理解、お支えを賜りました。関わって下さった皆々様に心より御礼申し上げます。

 さて、いつも本郷教会の礼拝やSDGでお目に掛かる松浦のぶこさんの興味深いエッセイ<声楽から朗誦へ>をご紹介致します。短歌誌「世界樹」に掲載されたものですが、このたび当ブログへの転載のお許しを得ましたので、どうぞ御覧下さい。

 松浦さんは今ご主人とともにパリにお住まいです。なぜ? どうやって? という素朴な質問をお持ちの方は、文芸春秋9月号の随筆欄にご主人茂長氏の書かれた「パリで年金を」をお読み下さいませ。    

                                

異文化体験エッセー 3

声楽から朗誦へ               

松浦のぶこ (日本)                      

                                

 イギリスに住んでいた三十代の数年間、趣味で声楽の個人レッスンを受けていた。ある時期、バッハのマタイ受難曲中のソプラノ独唱「君がこころ血にそむ」を稽古していただいたことがある。

 この音楽は序曲「娘らよ来たりてわが嘆きを分かて」から終曲「我ら涙もて御墓に坐し」まで、独唱、合唱とオーケストラの演奏が渾然一体となり、いわば大聖堂のステンドグラスのように複雑な光を放つ一大宗教曲である。そのアリアの一つでもいいから自分で歌えるようになる、それは長い間の夢だった。宗教音楽はその風土の中で教わらないと本当のところは分からない。夫の仕事の関係でイギリスに住むことになり、チャンスは到来。怖いもの知らずのしろうとの特権で個人教授を見つけ、一年したころ「マタイ受難曲を習いたいんです」と持ち出すと、「あっそう、いいですよ」とすんなり応諾されたのは、まあ何と幸運だったことだろう。

 何回目のレッスンだったか、先生はふいと思い立ったように、同じアリアを母国語の英語で歌ってくれた。教会で何度も歌ってきたことが分かるような、よく練れて堂々とした歌いぶりだった。このアリアはドイツ語だと、子音が旋律線を縦に鋭く切っていく感じがする。それが英語の流麗な発音に乗せると、息の長いダイナミズムに変わり、別の歌のように聞こえるのだ。言語によって同じ歌曲がこんなに違って響くのかと、まるで実験室で化学変化を目撃したかのように私は興奮した。

 その当時の私の楽譜は、「日本初出版 全訳歌詞附マタイ受難楽」(一九七三年、基督教音楽出版)という代物であった。先生は日本語の文字が譜面に並んでいるのを珍しそうに眺めたのち、「これで歌ってみましょう」と突然宣うた。そんなもの、一度もやってみたことがなかったが、先生の仰せとならば致し方ない。その場で拾い読みしながら歌った。「血にーそむ、血にーそむ、血にそむ愛ーなる、血にそむ愛ーなる、愛なるこーころ、こーころ血にそむー、愛なるこーころーーーー」。何てひどい日本語訳だろう、これでもバッハかしら。歌いながら冷や汗が出た。

 しかし先生は、カルチャーギャップをむしろ楽しんでいる風情で言った。「ちーにー、ちーにー 、この響きは珍しいですね!」。声楽家というのは概して外国語を捉える耳のほうも優れているもので、先生は早くも繰り返される「血に」の部分に注意を喚起されたようだった。しかし私としてはこんなひどい翻訳が本来の日本語の響きだと思われたら困る。そこで口直し(耳直し?)によく知られた「さくらさくら」を超スローテンポで歌ってみせた。「さーくーらー、さーくーらー、のーやーまーもーさーとーもー、みーわーたーすーかーぎーりー」

 「こういうのが日本の歌なんです」とにわか愛国者になって私は言った。外国に暮らしているといやでも日本代表をつとめ、愛国者にならざるをえない場面によく遭遇する。先生は眉間に皴を寄せて聞いていたが、やっと「グレゴリオ聖歌にちょっと似てますね」と答えた。息継ぎが分からないよう平らかに歌うグレゴリオ聖歌の朗唱法は、確かに「さくらさくら」と少し似たところがあるかもしれない。だが両者の音韻構造は全く違う。偶然にもマタイ受難曲のあとに「さくらさくら」を歌ってみて、日本語の子音というのは実に単純きわまりなく、またその種類も乏しいことを、改めて感じた。ヨーロッパ言語とくにロシア語などは四重子音まである。「こんにちは」にあたる zdravstvuiche からして三重子音と四重子音があり、これがうまく言えないと話しにならず、しょっぱなからロシア嫌いになった日本人もいるそうだ。

 子音一つに母音一つという単純な音韻構造から、「歌いあげる」とは我々日本人にとって基本的に母音を朗々と長く、ほぼ等分に引きのばすこと、その平らかさゆるやかさが歌唱の心髄であったのだろう。(威勢よく早い大漁節などの民謡でも音韻構造は同じだ)。

 話は飛んでほぼ二十年後、私はフランスに住んで短歌を作り始めた。古典和歌から近代短歌へうつったとき、朗詠の仕方はどうかわったのか、以前から気になっていたことが、自分が作歌するようになって一層気になってきた。だが短歌も自由詩も公の場で朗詠会が行われる話は以前も今も聞いたことがないのだ。朗詠されない詩なんてあるだろうか。ソ連崩壊期の90年代ロシアにいたころ、劇場である詩人のリサイタルがあった。たくさんのファンが押し寄せ、中に入りきれない人々は外にしつらえられたスピーカーで、ギターを爪弾きながら詩人が自らの詩を朗詠し歌唱するのを、寒い夜だというのにうっとりと聞いていたのを、昨日のことのように鮮やかに思い出す。

 短歌に話を戻して、私はパリ在住中に宮中の和歌披講家として名高いB氏とご縁があって文通し始めた。そのうち私は和歌披講の実際を聞いてみたい気持ちを抑えられなくなり、パリからB氏の自宅に電話して、電話の前で唸って下さいと頼んでしまった。宮中に近い名門のお家の方に向かって、何とまあ向こう見ずで無礼なお願いであったことか。B氏は気を悪くもせず、披講にはいくつかの種類があり、晴れの場合と褻の場合とで調子が違う、など丁寧に説明して下さった。私はそこで引き下がらず、どうしてもその披講の実際をいま聞きたいと二度三度とお願いした。とうとう根負けしたB氏は、別の場所に移るからしばらく待つように言って、よほど広い家なのか五分ほど待たされたのち、「お待たせしました」と改まった口調で再度電話に出られた。そして「では、田子の浦に打ち出てみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りけり、でやってみます」と言って、「たーごーのーうーらーにー」と一文字ずつを長く平らに伸ばして発声し、最後の「に」は驚嘆するほど長く保ってから、鋭く上げてぴちっと切った。五、七、五、七、七の各句ごとにこれを繰り返した。当時七十代であられたが、その若々しいテノールの声と、長い音を保つ肺活量にはまったく圧倒されてしまった。学習院時代、演劇部でシェイクスピアのハムレット役を演じたなど、演劇も音楽もお好きなので、不躾な私の要望に応えて下さったのだろうと、感謝している。

 しかしこの朗詠法は宮中であってこそ守り続ける意味があれ、現代の社会に生きる短歌が真似できるものではない。たとえばカタカナ表記される外国語ひとつをとっても、また近年多用されるオノマトペをとっても、長々しく発音するのには相応しくない。            

                                

 アウシュヴィッツに気が満ちた それが人間の集団だから「ユダヤ」だからだ 

     (岡井隆の新作歌集『二〇〇六年水無月のころ』より)  

                                

 これを短歌としてヨム、人前で声に出してウタウ。さてどういう方法が考えられるだろう。あーうーしゅーうぃーっつーにー、はむろん論外だ。

 短歌を黙読しているかぎり問題は意識されにくい。だが私は日本の詩人や歌人ひとりびとりに問うてみたいのだ。あなたは自分の持ち声で、心地よいディクションで、自分の詩やうたを人に聞かせる、ということにどれくらい関心を持っているのでしょうか、と。戦後短歌に絶えずゆさぶりをかけてきた岡井氏である。伝統護持の中心である宮中に入って、うたの場の雰囲気や、披講などを、どのように感じておられるのだろうか。毎年歌会始めで見る岡井氏の歌は、心なしか氏の個性を抑えて伝統に寄り添った無難な歌が多いようだ。この破調の歌はその反動なのかもしれないが、どう読み上げたら歌人の御意に叶うのか私には判らない。うたの意味も人種主義かと誤解されかねず困惑するばかりだ。

 ともかく、黙って部屋の隅っこに座ってじーっと短歌を読むなんて不気味ではないか。また、ぼそぼそっとぶっきら棒に読み上げるなんて、美しくないではないか。詩にふさわしくないではないか。黙読は学術書にこそ相応しい。小説もエッセイも、およそ文学たるものは朗読に堪えるものが作品の名に値する。就中もっとも音楽に近い詩は、それが発音され空間に響きわたり人々の耳に捉えられて初めて、詩のうちの生命が輝き燃えるのではあるまいか。

(#)二〇〇七年五月十五日 東京


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