5月27日 ペンテコステの日曜日、茜の洗礼式で、淡野家一同ミネアポリスに集合しました。晴れ渡った空、ミネソタの世界遺産と言いたいような白い雲! St.Andrew's Lutheran Church の11時30分からの礼拝で、茜ともう一人アメリカ人の赤ちゃんが洗礼を受けました。
父キースに抱かれた茜、そして母桃子と代父 淡野太郎(桃子の弟)、代母 ローリ・ニーミ(桃子の夫キースの妹)が前へ出て、茜の頭が洗礼盤の水で三度洗われるのを見守りました。会衆席の前列に双方の両親、日本から来た桃子の叔父、叔母、叔父の兄夫婦、さやか、キースと桃子の友人たちが並び式次第をしっかり見届けました。桃子は礼拝賛美でアンセムとバッハの聖霊降臨祭のカンタータ第68番から「Mein glaeubiges Herze わが信仰深き心よ」を独唱しました。聖書の語る「一同は聖霊に満たされ、‘霊’が語らせるままに、ほかの国の言葉で話しだした」「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった」という、どんな人たちとも‘聖霊’によってコミュニケーションが可能であることが証明された聖霊降臨の祝日に、茜がキリストの教会のメンバーに加えて戴けたことをわたくしはことのほかうれしく思いました。
この前夜5/27土には、前にもお伝えしたJeune Lune (http://www. jeunelune.org) という一座のオペラ芝居
この一座のオペラは単にMozart 作曲のオペラをそのまま上演するのではなく、何重にも話を重ね、それをトリックとイルージョンによって「あっ」といわせる代物です。今回は初日の前にプレビューを二回見たので、細部の工夫なども良く分かり成る程と感心させられる場面が沢山ありました。
舞台は老いたフィガロと洋服ダンスに閉じ込められたこれも老いた伯爵のディアローグから始まります。そうそう序曲はロッシーニの「セヴィリアの理髪師の‘Figaro,Figaro’というひと節が鳴りそこからお馴染みの「フィガロの結婚」序曲に移ります。この序曲の間に「パリ。革命後残された家族が寂しく暮らしていた」という字幕が映され、その言葉とあの序曲がぴったり合う箇所があって、普段音楽だけを聴いているのとは全く違う感じでした。
舞台そのものはとても簡素で色も極力少なくしていますが、舞台奥にはスクリーンがあり、宮殿の広間や海など背景が映し出されるかと思うと、演じている俳優や歌手の顔が on time でアップになり、芝居と映画を一緒に見ているような感じで、これまた面白さが倍加します。特に観客に顔を見せないシーンなどは非常に効果的です。
このオペラ芝居に登場するのは革命後16年経って身分が同等となった伯爵とフィガロ、これまた年老いたバルトロとマルチェリーナ、バジリオ、それに当時のフィガロとスザンナ、伯爵と伯爵夫人、ケルビーノです。伯爵夫人とケルビーノは当時の彼等と16年後の彼等の両方を歌います。
ボーマルシェの戯曲は 1.セヴィラの理髪師、2.フィガロの結婚、3.罪ある母 と続き、音楽は 1.ロッシーニ、2.モーツアルト、3.ダリウス・ミヨーが作曲しているのですが、今回の舞台では 3.罪ある母 がモーツアルトのフィガロの音楽をうまく用いて驚くべきシーンとなって現れ出で、度胆を抜かれました。
老フィガロは老伯爵に、伯爵夫人ロジーナとケルビーノの間に取り交わされた手紙を朗読します。その手紙から伯爵は、自分の子供と信じていたレオンという息子が、実はケルビーノとロジーナの間に生まれた子供であることを知らされ、絶望のあまりピストル自殺をしてしまいます。
続くシーンで現れたのは柩(ひつぎ)、中には伯爵の遺骸が、と誰しも想像していると、そこには戦死したケルビーノが! ここから現実が過去へ遡り、いきなり生き返ったケルビーノはモーツアルトがバルバリーナに歌わせたカヴァティーナ「L'ho perduta, me meschina ピンを無くしてしまった、どうしましょう・・・」を「L'ho perduto, il mio core 失ってしまった僕の恋人」というテキストで歌うのです。このアイディアには泣かされます。さらにロジーナも現れ、伯爵との愛の思い出を歌ったかの有名な「Dove sono i bei momenti いずこへ、あの素晴らしい瞬間は」をケルビーノに向かって歌うのです。あってはならない現実を、転用とパロディによって真実に変えた驚くべきアイディアでした。
それにしても、この小さな劇団‘Jeune Lune’が