昨日はヴッパータールのルター派の教会で、オルガン・コンサートをしました。
お客は数十人なので、まあ、本郷教会のソリ・デオ・グローリアに毛が生えたようなものです。
私はノウ・ギャラで弾いたので、その点でもソリ・デオ・グローリアに似ています。
ここ、ドイツでも、特に小さな町では、ほとんどの音楽家は食べていけなくなっていて、ヴッパータールのような田舎では、特に音楽家は、別の職業を持たなくてはいけないようです。
私は、1982年に初めてドイツを訪れましたが、そのときには、日本とドイツの違いにいちいち驚いたものです。
ところが今は、ドイツと日本の共通点に、これまたいちいち驚いています。
ドイツでも日本でも、我々の状況は悪くなっている。
しかし、その分、霊性は上がっている、という感じです。
オルガン・コンサートでは、バッハで始め、ブクステフーデ、スウェーリンク、そして私の作品、その後また、バッハ、モーツアルト、ギルマンというプログラムを弾きました。演奏していても、やはり、気持ちがいい。
コンサートの後、例によって、感想や意見を述べてくれる人がいっぱい。
その中に、「今日のコンサートは、まるで、谷に下りて、また、上るような感じでした。バッハで始めて、あなたの作品が一番深いところにあり、そしてまた上って、最後は高いところへ飛翔しましたね。」と言ってくれた人がいました。
彼女は特に音楽に詳しい人ではなかった。
でも聴きながら、「この演奏家は何を伝えようとしているのだろう」と頭と心を使って突き止めようとする、そういうドイツの伝統が生き残っているのを感じた。
それを聴いて、私は危うく、涙をこぼしそうになりました。まさに、それこそ、私が考えたプログラムの意図だったからです。
こういう反応には、日本ではめったに、お目にかかれません。しかし、我々がやっている音楽は、このようなコミュニケイションの上でこそ、初めて意味を持つ音楽に違いありません。(続く)