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ムシカWeb通信


■ 2009/04/27 Der klingende Frühling 鳴り響く春 2009   報告その1

 皆様、終わりました。3/27のメンデルスゾーンの<晩祷歌><詩編22>、ペルト<ヨハネ受難曲>、4/12のメンデルスゾーンのモテット、ヘンデルのアリア、シュッツ<復活の物語>、4/17のシューベルト<岩上の牧人>とリート、ブラームス<クラリネット・ソナタ>、<愛のワルツ集>。私はペルトとシュッツは指揮をし、ブラームスは四重唱の一員として歌いました。

 なんといっても難しかったのはシュッツでした。甦られたキリストはあちこちに出没されるのですが、最初は誰も彼に気付きません。この人々が気付かないシーンと会話がえんえんと続き、大変なストレス。しかもキリストもマグダラのマリアも二重唱。これが例えばデマンチウスの<ヨハネ受難曲>のようにイエスが3声から6声を行き来するような書き方であれば、より合唱的な解釈が出来るので気が落ち着くのですが、2声というのは緊張させられます。「2」という数字の持つ恐ろしさに改めて驚かされました。

 「2声」ということにはさまざまな解釈が考えられます。最も客観的なのは、イタリアにはこのような伝統があった、というものです。確かにイタリアのルネサンス期に完成の域に達したマドリガルは一人の人間の心の想いを5声で歌います。

 現し身の姿と霊的存在が二重になっている、とも考えられるのかも知れません。また、イタリアの二重合唱の影響か、という説、とすると二人のイエスを右と左、あるいは上と下など、遠く離れて立ち、異なった場所からお互いを呼ぶように二重唱をするという形も考えられます。

 また「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてあることはすべて実現する」と<復活の物語>の中でイエスが述べられているように、イエスの復活は突如として起こったことではなく「預言の実現」ということなのです。すなわち、先ず神の計画があり、それが預言者によって語られ、その通りになる、というステップを踏むがゆえに、預言と実際に起こったことを同時に表すために2声にしたのか、と最近になってハッとさせられたのですが、確信に至ったわけではありません。

 嬉しいことに、この曲を聴いて下さった松浦のぶこさんからその日のうちに次のような感想を戴きました。

  

  Soli Deo Gloria から興奮して帰ってきました。一度も聞いたことがないシュッツの復活物語、全篇淡野さんの精神が染みとおり漲っているのを感じました。二つ感じたことを書き記します。第一、イエス役の二重唱は普通イエスの役に期待する声とまったく違う声で、衝撃的でした。二重唱だから複合された声だというところからして、意外感があります。それから決して美声でない二人がときどきとんでもない声を出したりして、気息奄々(といったら語弊がありますが)歌いついでいく心配とスリル。そしてハタと思いつきました。イエスをよく通るバリトンだと決めたのはだれなのか。それだけじゃなく、イエスを長身で痩せぎすの髭の濃い男と決めたのも誰なのか。もしかしたらそうではないかもしれない。チビで猪首、さえないご面相の大工の倅で、声も中東風のカサカサした高めの声だったかもしれない。そうすると福音書のイメージはどんな風に変わって見えてくるかーーーなどと歌を聴きながら考えていました。

 もうひとつは太郎氏の福音史家のことです。バリトンの素晴らしい声でテノール音域を歌われ、改めて才能を感じさせられました。日本でこれだけのエヴァンゲリストはいないと思います。もっていらっしゃる声(特に低音)を押さえて、澄んだ軽い響きを心がけられたら、もっと素晴らしい宗教的な演奏になると思いました。一晩たつと印象が薄れてしまうので、無理やり今日のうちにしたためました。ありがとうございます。

松浦のぶこ

 いつも松浦さんの的確な表現と、なによりもその素早い筆さばきに感嘆しているのですが、私はほんとうに書くのがのろく、皆様をがっかりさせていることと思います。これから少しずつご報告致しますので、お見捨てなく時々お立ち寄りくださいませ。


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