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ムシカWeb通信


■ 2014/11/19 深い海に・・・11/14<レクイエムの集い>プログラムノート

深い海に・・・

鈴木ユリイカ 詩  江端伸昭 曲

《海のヴァイオリンがきこえる》に寄せて

淡野弓子

 第2次世界大戦末期、終戦後をさつま芋の蔓、豆かすなどで生命をつないできた者たちにとって、鈴木ユリイカの詩<海のヴァイオリンがきこえる>に描かれた数々の情景は全く人ごとではなかった。この詩の、底知れぬ強さを秘めた求心力と果てしなくひろがる遠心力、そこに言葉の推進力が加わって、わたしたちは毎日もみくちゃにされ海の底に引きずり込まれた。

 海、そこは無意識。無数の人々の魂を呑み込んでぐるぐると世界を巡り時々魚が跳ねるように水のおもてに顔を出し頷き合ってまた潜る。詩人と同時代を生きた者たちもあとから生まれてきた者もとっくにこの世から消えてなくなった人たちもまだ生まれてこない子供たちも同じことを感じていることを知らされハッとする。微笑み合ってまた隠れる。

<海のヴァイオリンがきこえる>の中程に現れる‘アルブレヒト・デユーラーのメレンコリアI ’ の大きな女の天使のスカートのなかには隠れた意識が充満し、カッと見開かれた両の眼は隠されていたものが間もなく外へ飛び出すだろうことをすでに物語っている。

 すでにあらわにされているもの、それは言葉の持つ音である。母音であり子音である。『海のヴァイオリンがきこえる』はまさに文字通り声に出して読まれる詩であり耳を開いて聴く言葉である。 

 詩人鈴木ユリイカの息の長い詩節が続く。この詩に出会ってから作曲に着手するまでに10年を要したという江端伸昭は、一つひとつの言葉をこれ以上無いほど細かく分け、綿密に分析し、ほとんど仮名ひとつに一つの和音という音楽を書き上げた。そこに現れた旋律や和音は常に単語の意味、内容にピタリと合っていて、誰が聴いても頷かずにはいられない。ルネサンスからバロックへかけての西欧の修辞法や音画の技法が日本語とともに聴けるのは新鮮な驚きであった。例えば、「コンパス」はくるっと回って円を描くので3拍子、「ズタズタに」という箇所は縦(和声)から見ても横(旋律)から見ても増4度(三全音、禍事の象徴)が用いられまるで魔方陣を見るようだ。

 さてそんなわけで私たちは単語一つひとつをくっきりと分けて歌う練習をしてきた。ところがこれは大きな誤算であった。ドイツ語では前置詞を歌ってから名詞を歌うので、そのあとはコンマかピリオドで一息つくという流れなのだが、日本語はその名詞のあとの「てにをは」が重要なので息をつかずににどんどん言葉を繋げて行かないと意味が通じないのだ。さらに並外れて長文の詩節の最後の一文字まで情緒を保つという難行も私たちにとっては初めての体験であった。

 作曲家とのピアノ合わせが始まったのは今年の10月16日であった。(この曲の完成は2002年10月17日とある。)まず1拍が3連符に分けられた4分音符はすべて「まるく」、16音符4つに分けられた4分音符はすべて2等分で拍をとることとの指示。円と四角である。面白いのは拍頭に「に」とか「の」とか助詞が来る時で、このズレた拍頭にアクセントを置くと、なんと意味が明確に伝わり同時にズレによって言葉はどんどん先へ進む。また声になるときの強弱、方向性、運動性は言葉ごとに異なるのだが、これらを彼はすべて手を振り脚を上げ踵を踏みならして示したのである。言葉はすべて肉体化され、あたりは一面の言葉の海〜〜〜〜。

 日本語を語り歌うのはドイツ語の歌を歌うことより数層倍難しいということを目の前に突きつけられたわたしたちは、以来いまだに呆然としているのだが、詩人の〜全力疾走で沸き上がる〜(とは詩集『海のヴァイオリンがきこえる』の帯にあった言葉)詩句はその疾走に優るとも劣らない伴走を得て、時という概念を吹き飛ばす勢いだ。

 さらに作曲家江端は数学、天文学に明るくまた詩人でもある。演奏者に向けて譜面に書かれた多くの言葉はもう一編の別の詩のように美しい。例えば冒頭のピアノ前奏部分には「海の光のリズムのきらめきを感じて」と記され、ほかにも「花びらは星になる」「言葉の風が吹く」「音楽の雪がそそぐ」などなど、多くの的確な指示はどれも私たちの心をほぐし調える力となった。

 鈴木ユリイカ氏、江端伸昭氏に敬愛と心からの感謝を捧げます。そして今夕、大切な方々への憶いを胸にここにお集り下さいました皆々様に深く御礼申し上げます。ありがとうございました。

2014年11月14日  たんの・ゆみこ

    


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