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ムシカWeb通信


■ 2014/07/07 言葉は音に、音は風に <17世紀の華>淡野弓子[7/4プログラム・ご挨拶]

 今夕のプログラムは、いずれ劣らぬ名匠シュッツ、シャイン、シャイトの傑作を選りすぐってお届けしようと編まれたものです。3人の音楽はそれぞれ独特の美を放ってはいますが、比較の対象というよりはむしろ似た者同士の面白さを感じます。さらに、3人の音楽を1度に聴くことによって、それぞれの良さが際立って来るのも不思議なことです。

 シュッツ、シャイン、シャイトに共通しているのは、ヨハン・ワルターを源流とするドイツ・プロテスタントの作曲家であるということです。ワルターはマルティン・ルターの友人で音楽上の相談に乗っていた作曲家でした。シュッツの最初の師であるゲオルク・オットーはワルターの弟子でしたから、シュッツはワルターの孫弟子ということになります。強靭なワルターの流れは3大Sに続いてパッヘルベル、ブクステフーデ、J.S.バッハを乗せ、文字通り轟々と音を響かせて200年の時を刻みました。またこの200年は「音楽は神が創造し人間に与えた贈りもの」と信じられていた時代でもありました。

 音楽学者H.H.エッゲブレヒトは、ハインリヒ・シュッツの声楽曲を聴くと、一つ一つの言葉に付けられた音の、そこに存在する必然性がはっきりと提示され、人は音楽を聴くと同時に、この自分を取り巻く世界の仕組みに目覚める、と語っています。神の整えた秩序を音楽で映し出し、音楽によってこの宇宙に隠された神の法則を知ることが出来るとは! 

 言葉は音楽となって私たちの五感と身体を動かし、言葉の伝える意味を超えた何ものかが私たちの魂を振動させます。このようにしてキャッチされた音楽によって、人は身体の軸を正され、心を解き放たれて、新しく生まれ変わるのです。「音楽は神の贈りもの」とはルターの言葉ですが、今夜の3人の音楽は正にこの言葉の具現に他なりません。

 彼らの生きた30年戦争(1618-1648)時のドイツはペストでバタバタと人が死に、さっきまで共に音楽をしていた人が翌日には戦場に狩り出され、薬草などを扱う女性たちが魔女と呼ばれて裁判にかけられるなどなど、想像を絶する凄惨な時代でした。戦時下、シュッツはコペンハーゲンの王室に疎開し、シャインは病弱のため1630年44歳で亡くなります。シャイトはドイツに留まり、教師などをしながら細々と生き延びました。

 このような時代にも拘らず、彼らの遺した作品はどれも限りなく明澄で豪華です。大胆に神の臨在を告げるシュッツ、繊細な筆致で大きな出来事を人々の胸に彫り込むシャイン、彼は宗教歌と世俗歌を交互に出版するという、親しみを感じさせる人柄で、シュッツの親友でした。今夜は酒宴のための器楽曲集《音楽の饗宴》から第15組曲も演奏されます。シャイトの合唱作品は、鋭い感覚と思い切りの良さで思わず背筋を伸ばしたくなります。彼は1624年、それまで使われていた文字譜を5線譜で表した《タブラトゥラ・ノーヴァ 新譜表》全3巻を出版しました。代表作《吹け、風よ吹け》をチェンバロソロでお楽しみ下さい。

 演奏に協力して下さったソリスト、器楽奏者、合唱団の皆様、また長きに亘って私どものコンサートをお支え下さるご来場の皆々様に心からの感謝を捧げます。

 17世紀かの地に吹きし風、今この地にて新しき息吹とならんことを!                        

                        [2014・7・4]

コメント(2) [コメントを投稿する]
_ 松浦のぶこ 2014年07月15日 23:04

バッハBWV147 心と口と行いと生き方   パリ日記140329<br><br> ソプラノのアリア「イエスよ道を備えたまえ」を練習している。お手本はテルツ少年合唱隊のボーイソプラノ(指揮ハルノンクール)。大人顔負けの歌唱力は、さすがヨーロッパのクワイヤの伝統を感じさせる。<br> 20代から趣味で声楽を習っていたが、65歳になったとたんに声がおかしくなった。普通の会話はノーマルなのに、歌うと喉に痰がからまって、うがいしても取れず、まともな声にならない。耳鼻科に行っても治らず、70歳になったイギリスの声楽の先生にも相談したが、「加齢で筋肉の張りや柔らかさが失われる、なかなか調整が難しい」との返事で、がっかりした。ところが今年に入ってどうしたわけか声が戻ってきた。とてもうれしい。<br> 年齢を考えて、いつもソットヴォーチェで歌うこと、ブレスの箇所をふやすこと、などの工夫をした。パリのアパートは天井まで3m、床がフローリングだから、響きがとてもきれいで、ラクに声が出る。それだけに上下左右の部屋にも音が聞こえてしまう。住人たちから苦情が出ないように、外の交通量が多い午後4時ごろ1時間以内で練習するようにしている。<br> このアリアの後にかの有名なコラール「主よ人の望みの喜びよ」がつづく。バッハのコラールはどれもそうだが、人間の集団が神にむかって心と口を合わせて歌う讃美そのもの。自分も合唱の中に入って歌っていると、どんな言葉の祈りよりも信仰を感じることができる。イエスはこの世に姿を見せないが、人間の中にいて一緒に歩いてくれている、と素直に感じ励まされる。バッハの音楽を通じて信仰に近づく人がいるのも道理だ。バッハは最大の宣教師の一人であると思う。<br> 東京を発つ前に親子3人のファミリーコンサートをやった。初めての試み。それぞれが練習中の曲を披露した。とてもいい雰囲気だった。<br>                  

_ Yumiko Tanno 2014年07月19日 11:55

松浦のぶこさま<br>ご投稿ありがとうございます。「間違ってこのコメント欄に」とのメールも戴きましたが、熱心にバッハを勉強されているご様子、他の方たちにもお読み戴ければと思います。このままにさせて下さいませ。<br> 「バッハは最大の宣教師の一人」同感です。私が受洗に導かれたのもバッハの《ヨハネ受難曲》がきっかけでした。歌っている最中に「イエスは本当にこの世に居たんだ、居るんだ。」と感じたのです。


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