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ムシカWeb通信


■ 2013/01/31 プログラム散策

 皆様

 Toppageでお知らせしていますように、来る2月4日、歌曲の夕べを開催致します。お寒い折ですが、ご参会戴ければうれしく存じます。プログラムについて若干書きましたので、掲載させて戴きます。

 当日のプログラムは、外側から眺めれば「星よ、菫よ」に尽きるのですが、内側には、駆け抜けた人生の一場面、一場面を振り返り、紡ぎ合わせて自分自身の心の軌跡を辿れたらという願いが込められています。

 モーツアルト《すみれ》 詩:ゲーテ

 すみれを踏みつけ息の根を止めた羊飼いの娘は、生き物を傷つけながら、その相手の存在すら認識していません。この無意識の残酷性はひょっとしてあらゆる少女の心に潜んでいるのではないか、とずっと思ってきました。押しつぶされてもなお「幸せ・・」といったすみれに私自身を重ねることはまず不可能ですが、私自身が羊飼いの娘であったことは容易に想像出来ます。

 モーツアルトはゲーテのこの詩を全く偶然に、詩人への畏敬などそっちのけで作曲し、この音楽によって実にゲーテを圧倒している、とは音楽学者アルフレード・アインシュタインの言葉です。

 シューベルト《ズライカ その一/その二》 詩:マリアンネ・フォン・ヴィレマー

 遠く離れた恋人を想いつつ、その一では東風に語りかけ、その二では西風を羨む女性の歌です。遠く離れたといえばこの二人の年の差も30歳以上だったとか・・老年・・65歳とのこと・・のゲーテが、遥かに年下で、銀行家と結婚したばかりのマリアンネ・フォン・ヴィレマーと知り合い、魅かれ合って、彼女に贈った詩と思われていましたが、実はマリアンネの詩であったとのことです。シューベルトはゲーテの詩と思っていたとか・・

 シューマン《リーダークライス》 詩:アイヒェンドルフ

ここに収められた詩はどれも清涼感の漂う上品なものですが、今と昔、この世とあの世、うわべと内心、人と魔物などなど、対照的なものの間を行き来する内容が多く、どの詩にもゾクッとするような瞬間が潜んでいます。シューマンの音楽は、モーツアルトやシューベルトのように音楽の天然の法則を信じ切った音楽の進め方とはいささか異なり、しばしば繊細でやや病的な心の感じられる箇所に行き会います。しかしそのような表現は、音楽の美を損なうどころか、より一層麗しさを増し「ロマン派」の意味を知らされるのです。

 マーラー《さすらう若人の歌》 詩:マーラー

若者の典型的な失恋の歌、と言い切ってしまっては実もふたもありませんが、この歌詞は作曲者自身のもの、というところが珍しいのではないでしょうか。詩型にこだわりがなく、感情のおもむくままに言葉が溢れ、流れ出ています。

 一方音楽は、各曲のモチーフが厳選され、整理されているため、どの音型からも明確な意味が伝わってきます。詩の扱うテーマが同じせいか、そこここにシューベルトの《冬の旅》を思い出させる表現にも出会います。

 ブラームス《雨の歌》《余韻》 詩:グロート

一年間ブラームスの近くに住み、泣きながら修業したといわれるグスタフ・イェンナーは、詩人クラウス・グロートとも親しかったようですが、彼が遺した作曲修業記録によれば、ブラームスはまず歌詞と音楽の形式が合っているかどうかを問題にしたそうです。

グロートの《雨の歌》は四行一連、全体は八連から成る詩ですが、最初の二連に付けられた音楽が最後の二連に戻ってきます。中の四連は二つに分けられ、それぞれに新しい楽想が与えられています。全体のまとまりといい、中間部の変化といい、詩の語る内容に極めて良くマッチしています。

《余韻》はたった二連ですが、《雨の歌》に使われたモチーフがそのまま繰り返され、文字通り「余韻」の言葉にふさわしい音楽となっています。

 私はこの曲が若いころから大好きで、臆面もなく歌っていたのです が、今、この詩を改めて読み返してみますと、まことに晩年にこそふさわしい内容であることに気付き、若気の至りを恥じる次第です。

 この二曲を貫く雨のモチーフは、《ヴァイオリン・ソナタ 第1番 ト長調 Op.78》の第3楽章にそのまま用いられていることでも有名です。因に歌曲は1873年、ヴァイオリン・ソナタは1878~79年に作曲されました。

 モーツアルト《夕べの想い》 詩:カンペ

最後の歌は、人生の終焉を迎えた人が、自分の来し方を振り返りつつ、しかしある種の満足感のうちに、自分の墓詣でをしてくれるであろう友人たちに向かって語る想いです。

 今日はここまでにします。ではまた。


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