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ムシカWeb通信


■ 2011/11/16 <レクイエムの集い>

 今年もレクイエムの季節となり、明後日(11/18 金)午後7時より、東京カテドラル聖マリア大聖堂におきまして、恒例の集いを催します。演奏曲目について、以下のようなノートを書きました。当日お聴き頂ければ大変うれしく存じます。  

                                                                 

〜魂の慰めのために〜

 「リスト生誕200年記念」に3.11が重なり、例年の催しにも「特別の」意味が加わることとなった本日の<レクイエムの集い>、当初予定しておりましたプログラムを若干変更し、シュッツ、マウエルスベルガー、そしてリストの《レクイエム》をお聴き戴くこととなりました。

 この3人の作曲家はそれぞれに非常に厳しい人生を歩みました。ハインリヒ・シュッツは33歳から63歳という働き盛りを30年戦争とともに生き、ルドルフ・マウエルスベルガーは1933年から45年までナチ政権の下で党員として働かざるを得ず、その終結時にはドレスデンが大空襲によって壊滅します。リストも一見華やかに見えますが、彼が生涯持ち続けた宗教的求道心とその音楽を周囲は決して理解しようとしませんでした。

 第1のグループであるシュッツのプログラムは、前後に合唱、中に独唱3曲という構造です。最初の “Litania 連祷” は、多くの人が共に祈る祈りで、先唱者が神に祈りの言葉を唱え、それに会衆が「主よ、憐れみたまえ」「聞きたまえ」「救いたまえ」「助けたまえ」と唱和する形式です。歌詞は中世以来、カトリック教会においてラテン語で歌われて来たものですが、1529年マルチン・ルターがドイツ語に訳し、彼の旋律によってプロテスタントの讃美歌集に収められ、現在も歌われています。ルターの曲は単旋律で、先唱部分が同じ音の上で唱えられ、唱和部分に簡単な動きのメロディが添えられたものです。

シュッツはこの祈りにを通奏低音を持ち込み、各々の祈りにアクセントを与え、合唱は始まりと終わりの和音の調性が変化しながら進行します。それは、d-D, C-A, E-e, F-D, d-F, a-C, G-A, a-D, A-D, C-D, A-A, G-A, D-G, d-C, e-D, g-A,d-E, B-C, g-C, g-D といった具合に考え得るありとあらゆる和声進行が現れ、眠り込むすきを与えません。

 ソプラノの先唱者によって歌い出される言葉には、この地上に起こるすべての災害が網羅されているといってよいでしょう。「ペストから守って下さい」を「放射能から」としたいと思いましたが、あとの祈りはすべて今の日本でも問題になっていることばかりです。人間の抱える苦しみは時を経ても変らず、その因はエゴということも知らされます。最後の呼びかけ「O du Gottes Lamm, das der Welt Sünde trägt おお神の子羊、世の罪を負いし者よ」の言葉が,平常時の何倍も心に迫ります。

 独唱曲 “O Jesu, nomen dulce おおイエス、甘き御名” “O misericordissime Jesu おお慈しみの極みなるイエスよ” はイタリア風モノディによるイエスへの賛歌、“Fili mi, Absalon 我が子、アプサロン” は我が子を失ったダビデ王のラメントで、いずれも男性ソリストのためのコンチェルトです。二つのイエス賛歌は、1636年に第一集、1639年に第二集が公刊された《Kleine geistliche Konzerte 小教会コンチェルト集》という、併せて55曲にも及ぶソロとアンサンブルのアルバムの第二集に収められています。ここでいう「小」とは「少人数のアンサンブル」という意味で、当時シュッツが楽長を務めていたドレスデンの宮廷礼拝堂付の音楽家たちが30年戦争にどんどん駆り出され、少人数のものしか演奏出来なくなり、このような作品が書かれたのでした。

  “O Jesu, nomen dulce おおイエス、甘き御名” は通奏低音とともに歌われるイタリア風のモノディです。詩は12世紀クレルヴォー修道院長を務めた聖ベルナールの『イエス・甘き追憶』からのもので、イエスの御名を唱えると心地良く、喜びに満たされ生き生きとしてくる、あなたの名を永遠に唱えよう、という内容です。

  “O misericordissime Jesu おお慈しみの極みなるイエスよ” は聖アウグスティヌスの『瞑想』から採られた言葉です。前の曲同様、心の深みから遠くを見つめ、流麗にして力強く、次から次へと言葉が迸り、畳み掛け、神との人との合一を思わせる幸いに充ちた終結はシュッツ独自の世界といってよいでしょう。「小」とはいえ、その内容の豊かさ、音楽の強さは比類のないものです。

 この2曲の間に歌われるのは、息子を死なせてしまった父親の慟哭です。旧約聖書サムエル記下によれば、アブサロンはイスラエル一の美丈夫、とくに髪の毛が多く、毎年一回刈る髪の重さまで記録に残っているほどです。父ダビデに叛乱を企て、弁舌で民衆の心を惹き付けます。戦いにはつきものの密使の暗躍、そして陰謀の渦巻くなかで、いよいよ戦いがエフライムの森で起こります。アブサロンは完敗し、らばに乗って逃げます。樫の大木のからまった下を通った時、アブサロンの長い髪の毛が木にひっかかり、らばはそのまま走り去ります。アブサロンは天地の間に宙づりに。まだ生きていた彼は心臓を突き刺され死にます。ダビデは城門の上の部屋に上りながら「我が子、アブサロン!」と呻き、泣き、咆哮します。

 ‘シンフォニエ・サクレ’とは、声楽に器楽の加わったコンチェルトで、このアブサロンには4本のサクバット(バロック期の管の細いトロンボーン)が用いられていることでも有名です。サクバットは「王」を象徴し、さらに典礼の厳粛さを演出する楽器です。アルトからバスにかけての中低音域が4部に分かれて響き、非常に豪華な音色です。前奏にあたる部分は上へ上へと向かう音型でダビデ王が「上の部屋へ」上りながら哭く姿、ついで下降音型に変わり、溢れ止まることのない涙が活写されます。

中間に置かれたシンフォニアでは拍の裏側に他声部が強拍で押し入るホケトウス(しゃっくりの意)のリズムによって、木の枝に髪の毛を絡ませ痙攣しているアブサロンが目の前に浮かびます。モンテヴェルディからは強い影響を受けたシュッツでしたが、この《我が子、アブサロン》とモンテヴェルディの《アリアンナの嘆き》はラメントの双璧と言われています。

 シュッツ作品の最後は “詩編116” 全編に付けられたモテットです。複合唱ではなく、5声(S1,S2,A,T,B)のア・カペラ作品です。シュッツはこの曲をイエナの収税官ブルクハルト・グロースマンの委嘱によって書いたのでした。グロースマンは1616年、神の特別の恵みによって窮地を救われたそうです。彼は、神の善き業と慈しみを讃え、感謝を表すために、なんと16人の作曲家にこの詩編116の作曲を依頼し、『冥界の恐怖と魂の平和』という題で出版(1623 イエナ)したのです。この詩編116を頼まれた他の作曲家には、ミヒャエル・プレトリウス、クリストフ・デマンチウス、ヨハン・ヘルマン・シャインらの名も見えます。

 このモテットの成立は1619年ごろとされています。シュッツはこの頃、1605年に出されたモンテヴェルディのマドリガル集第5巻から大きな影響を受け、前述のアブサロンにおいてもそうであったように、この詩編でも各所に音画の手法を用いており、音を聴くだけで身体の動きや心理状態をはっきりと知ることが出来ます。

 第1部は自分の声と祈りを聞き届けてくれる神への愛と信頼が歌われます。第2部では「Stricke des Todes hatten mich umfangen 自らにからみつく死の縄目」「Angst der Höllen 地獄の恐怖」といった言葉が音画として描かれ、「errette meine Seele わが魂を救いたまえ」という懇願が急を知らせるような8分音符で表現されます。音楽学者モーザー(Hans Joachim Moser 1889-1967)はこの8分音符を「戸を叩く」と解釈しています。

 これまではD-Dのドーリア調でしたが、第3部にはフラットが一つ加えられ、B音を含むG-Gのドーリア調に変わります。このB音はEs音を呼び、音楽は優しさを増して行きます。「Der Herr ist gnädig 主は憐れみ深く」という内容に添っており、Es音の周囲では「barmherzig 慈悲深い」という言葉が踊っています。「so hilft er mir 彼は私を救ってくださる」は3回歌われ、‘mir 私を’ の語はC-Dur, D-Dur と上昇し、最後はG-Durで終わります。和声の進行によって救いの確かさや祈りが聞き届けられたことを知らされるのです。

 第4部で再びD-Dのドーリアに戻り、神の為して下さった数々の善きことが語られます。「Mein Auge von den Tränen 私の目を涙から」の箇所では ‘Tränen 涙’ の語が隣接の音と重なってきしみ合う場面が何度も現れます。またシュッツ作品では話すテンポと同じように歌われることが多いのですが、「Alle Menschen sind Lügner すべての人間は嘘つきだ」の箇所は、正にその通りの表現です。最後は主への感謝をどのように表したらよいだろうか、の台詞が5声同時に語られ第5部へ進みます。

 「救いの杯を上げ、満願の献げものを主に捧げよう」との言葉が生き生きしたリズムで歌われます。途中「Der Tod seiner Heiligen ist wertgehalten vor dem Herrn 聖徒らの死は主の御前に価高い」の言葉が低声部3声でただ1度出現するのが印象的です。

 最終章の詩行はたった1行であとは‘ハレルヤ’が繰り返されます。短く歌ったり、長く引き延ばされたハレルヤが交錯し合って「満願の献げ物」にふさわしい大団円を迎えます。

 1945年2月13、14日の連合軍による大空襲によって、ドレスデンのクロイツ教会と合唱譜のアルキーフが爆撃を受け、そこで11人の少年歌手が亡くなります。1930年からクロイツ教会の合唱長を務めていたルドルフ・マウエルスベルガーは1945年3月30〜31日、受難週の金曜日から土曜日にかけてこのモテット《Wie liegt die Stadt so wüst この都のいかに凄(さび)しきさま》を作曲しました。マウエルスベルガーはドレスデンの焼け跡をエレミア哀歌の詩行に重ね、その悲惨の極み、絶望のどん底を人の声の響きに変えたのです。終戦後初めてのクロイツ聖歌隊による夕拝が45年8月4日、焼けこげたクロイツ教会で行われこの挽歌が初演されました。

 ここに歌われているエレミアの言葉は、恐ろしいまでに今回の東北の有様と酷似しています。そしてマウエルスベルガーの組み立てた音は、呆然と廃墟に佇み、声無き声で慟哭する人々を描き切っています。詩と音楽の普遍性、永遠性を感ぜずにはいられません。今夕は 3.11に東日本を襲った大地震によってこの世の生命を失われた方々、続く第二、第三の災害によって筆舌に尽くしがたい困難に遭遇されておられる方々に、この歌を捧げます。

 さて、いよいよリストの登場です。リストの華やかさは超絶技巧のピアノ曲とともに、そしてそれらを競って演奏する名手たちによって知り尽くされていると思いますが、彼自身が本来音楽に託したかったことは別にありました。

 リストの玄孫で、ワグナーかリストかと言われれば、断然リストである、と明言するニケ・ワグナー(Nike Wagner 1945- )女史の語るところによれば、リストは多くの作品を遺したにも拘らず、それを研究する人が少ない、いち早く無調への道を伐り開き、特に後期の作品は当時の最先端を行くものであったが、周囲や聴衆には理解されなかった、今生きている人々が聴いてどう感じるだろうか、と語っています。

 どういうわけか、時代はシェーンベルクを無調の旗手とし、リストの後期に表明されたアイディアや遺した作品は不当に無視されてきました。今夜演奏される《レクイエム》も、非常に前衛的ですが、何分にも演奏されることが稀なため、真正面から論じられることも少ないようです。

 男声4声(TI,TII,BI,BII)のソロ・アンサンブルと合唱(TI,TII,BI,BII)が交互に歌い交わし、そこにオルガンと金管、ティムパニが加わるという編成です。リストは1声からトゥッティまでの声部を組み替えながら、その場、その時に響く音の薄さ、厚さ、透明度といったものを非常に大切に考えていたようです。

 ‘Requiem aeternum 永遠の安息を’の始まりは、オルガンによるC音のみ、続いて声(BI)のみの先唱、13小節目にやっとTI,BI,BIIの3声が加わります。4声が一度に響くのは「lux perpetua luceat eis 照らしたまえ、尽きることのない光を」の箇所です。この慎重にして繊細な筆使いは最後まで続きます。独唱曲は登場せず、劇場風音楽の対極にあるといってよいでしょう。

 ‘Dies irae 怒りの日’は3行連が18、最後の3節は2行連、脚韻を持ち全体で20連のテキストですが、内容は最後の審判についての叙述です。リストは各連を内容に添って忠実に音で描き出し、20連をひたすらに先へ進め、全部で504小節にも及ぶ膨大な楽章を遺しました。(モーツアルトは「怒りの日」を6曲に分けて作曲しています。)

 ユニゾンが多用され不気味なものを暗示します。ラッパが鳴り響いたのち、器楽の支えなしに合唱のバスが「Mors stupebit, et natura 死者も生きものも驚くであろう」の不安気なリズム、「Judex ergo cum sedebit 審判者が座に着く」の芝居を観るようなリアルな表現、「Quid sum miser tunc dicturus? そのとき哀れなわたしは何を言おうか?」では恐怖に耐えかねて叫ぶ人の首の角度までがはっきりと写し出されるなど、音画の手法で情景を見事に伝えています。緊張に満ちた場面ののち、不協和音の頻出するアルペジオをオルガンが奏で合唱がユニゾンで第18連の「Lacrimosa dies illa その日は涙の日」と歌い出し、最後の審判のラッパが鳴り渡るなか「judicandus homo reus 罪人は裁きを受ける」が不安気に続き、やっと第20連「Pie Jesu 慈しみ深きイエスよ」を迎えます。オルガンの和音はゆっくりと少しずつ解決に向かい、最後の‘アーメン’で混じりけのないC-Durに導かれます。

 ‘Offertorium 奉献文’は信徒として亡くなった者たちの霊魂を陰府から、獅子の口から救って下さい、と願い、いけにえ・・パンと葡萄酒・・を捧げる儀式の祈りです。リストはソロ、ソロ・アンサンブル、合唱、オルガンを言葉に応じて巧みに配合し、祈りの内容が鮮明に伝わるよう、細心の注意を払っています。ソロ・アンサンブルに任された「de morte transire ad vitam 死から生への移行」という箇所では、最小限の音の動きと和声進行によって言葉通りのことが目の前に現出したかのような臨場感です。あとは当然のこと、といった調子のあっさりした四声体で「Quam olim Abrahae promisisti ・・・・ 主がアブラハムとその末裔に約束なさったこと」が歌われます。

 ‘Sanctus 三聖唱’では合唱にオルガン、金管、ティンパニという編成で神を象徴する3拍子の音楽が壮麗に鳴り響きます。オルガンが3連符のアルペジオで天と地を繋ぐように駆け上りまた下降します。そこには天空に羽ばたく無数の天使、死者たちもまた死の淵から救われ、ともに駆け巡っているようです。

 4分の6拍子に変わり先唱に誘われ‘Benedictus 祝せられたまえ’が始まります。ソロ・アンサンブルに受け継がれ、さらに合唱が追って2重合唱となります。ソロ・アンサンブルは‘Hosanna’、合唱は‘Benedictus’の歌詞で同じ旋律を同時に歌うという珍しい場面を経て、めでたく‘Hosanna’で合流、金管、ティンパニ、オルガンとともに豪華絢爛たる大伽藍、天国の宴が現出します。

 ‘Agnus Dei 神羊唱’、神に赦されるということは、神の子羊イエス・キリストの犠牲あってのこと、先唱者の歌う「Agnus Dei qui tollis peccata mundi 世の罪を取り除く神の子羊」の半音階の節は、「世の罪」という釘を全身に打ち込まれたキリストの姿そのものです。ソロ・アンサンブルの歌う「Lux aeterne 永遠の光」の言葉を受けて合唱が加わりお互いに端正に歌い交わしながら死者たちの永遠の安息を願います。

 リストの《レクイエム》最後の曲は‘Libera 赦祷文’です。半音で震えるように繰り返される8分音符の動きが何度も出てきます。歌詞を見ると、なんということでしょう。「Quando coeli movendi sunt, et terra 天と地が揺れ動くその時に」とあるではありませんか。「Dies illa, dies irae その日こそは怒りの日」「Dum veneris judicare saeclum per ignem 火によってこの世を裁こうと主が来られる」との言葉には、オルガンによって地の震えそのままに、この揺れ動くパッセージが奏されます。調の移行は速度を増し調性の判別が困難となります。最終節は最初の‘Libera’から‘ignem’までが繰り返され、最後の‘ignem 火’はB-Durの第3音dで宙ぶらりんに放置され、オルガンが減7の和音を2小節延ばして全休止、その後7小節をかけてゆっくり天に向かって上昇、最低音はA-Durの第三音cis、地から離れ、漂うように終わります。

 リストは早世した2人の子供、ダニエルとブランディーヌ、そして彼の母のためにこの曲を書いたとのことですが、彼の個人的な家族への思いを遥かに超え、全人類的な広がりと奥行きを持った作品となりました。この《レクイエム》は彼の言う「未来へ向けて放つ槍」だったのでしょうか。今、日本で右往左往している私たちをそのまま写し出しているような場面にも出会い戦慄を覚えます。彼がパガニーニの死を悼んで語った「天才とは人間の魂に神を啓示する力である。人間を一つに結び、ひとつの共感出来る力としてみなすこと、これが芸術家に課せられた義務である。」との言葉は、そのままリストに当てはまるように思います。[Y.TANNO]

 

コメント(2) [コメントを投稿する]
_ eli 2011年11月19日 02:17

本日、素晴らしかったです。素晴らしいと意識が遠のき、眠ってしまいました。本物です。<br><br>私は、本気で死ぬ気で、踊ろうと決意しました。<br>命がけ、いつもそうですけれど<br>本当に。ざるもって、日本人やりますよ。

_ Y.TANNO 2011年11月27日 01:42

まあ、えりさん、コメントありがとう! 私はコンサート後、本当に忙しくてBlogを開けることも出来ませんでした。今回の<レクイエム>、追悼のページに恩師、尊敬申し上げていた方、毎日お世話になっている本の著者、中高の同級生、それにシュッツ合唱団員だった仲間2人が掲載され、辛かったです。あなたのお父上を始め、全て「本気」の人生を送られた方々でした。


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