たった今、<白鳥の歌>最後の練習が終わりました。明日はいよいよコンサートです。感嘆、感動に明け暮れた練習の日々でした。人間の世の中にもこんな時空が許されていることを不思議に思いつつも、ひょっとして天国とはこんなところ?と思うような瞬間が何度もありました。お時間がおありでしたら是非お出かけ下さい。
以下明日のプログラム・ノートです。
シュッツ《白鳥の歌》の語るもの
淡野弓子
死を予感した86歳のシュッツが、辞世の言葉として選んだのは、詩編119と100、そしてルカ伝の「マニフィカト」であった。彼の残したおよそ500曲に及ぶ声楽作品を見ても、シュッツの言葉の選び方には、余人をもって代え難いセンスとひらめきが感じられるのであるが、この最後の選択には単なる驚きを超えるものが潜んでいる。
《Der Schwanengesang 白鳥の歌》のタイトルには「王にして預言者ダヴィデの詩編119、11曲、それに詩編100とドイツ語マニフィカトを付録に。」と記されている。実は旧約聖書の詩編は多くの詩人たちによるもので、無論ダヴィデはその筆頭格ではあるが、すべてが彼の詩ではなく、実はこの詩編119にも「ダヴィデ作」との表記はない。
しかしシュッツはあえて「王にして預言者ダヴィデの詩編119」と明記している。これには二つの理由が考えられる。シュッツのデビュー作は1619年の《ダヴィデの詩編曲集》であった。何事にも事の意味や理由を明確にし、計画性を持ち、己の人生と作品とをしっかりと結び合わせ、起承転結を明らかにしてきた彼としてみれば、最後の作品は「ダヴィデの詩編」であるべきであろう。もう一つは詩編119の語る内容とその性格にある。この詩編は徹頭徹尾「神の掟」に言及し、それを識り守ることが救いである、と教えている。全176節・・・ヘブライ語のアルファベト詩であるこの詩編の各節は、アルファベトで始まり、一文字が八行に亘って用いられているため、全22文字を掛けると176節となる・・・のほとんど各節に「掟」「律」「裁き」「言葉」「諭し」「命令」「戒め」「道」などが使われているのだが、最後の第176節には「わたしは迷っていなくなってしまった羊、探し出して下さい」とあり、ここにメシアの到来を待ち望む詩人の切なるの訴えが聴き取れる。聖書学者 木田献一教授は、この詩の中に、ダビデに象徴される宗教的生命の流れをシュッツが感じ取ったが故に、と前回の《白鳥の歌》公演(1998年9月18日)の際、プログラム解説で述べておられるが、今回まことにその通りであるとの感を深くした。シュッツは彼の《白鳥の歌》において、生涯を通じて彼の生命の源となった「神の律、掟」を語ると同時に、なによりもやがてこの世に誕生することとなるイエス・キリストを告げたかったに違いない。マタイは彼の福音書の冒頭に「イエス・キリストの系図」を掲げ、その第6節に「エッサイはダビデ王をもうけた」と記し、第16節に「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」と伝えている。
これらをふまえ、先ずは詩編119を繙き、シュッツの音楽に照応させながら、その内容を考えてみよう。
シュッツはアルファベト二文字分の詩編を一曲の二重合唱仕立てのモテットとし、最初の言葉をグレゴリオ聖歌の単旋律とし、各曲の終わりに頌栄を付けている。
主の諭しに従って生きる人は幸いである、と説く。普通は「律」とか「掟」という言葉には堅苦しいイメージが附いて回るが、真に掟を理解しその中で生きることが出来れば、そこでは心身の自由が得られ、楽であり、気持ちの良いものである、との理解が必要であろう。
全編を通じてほぼ各行に一度は現れる「Gesetze 諭し」「Zeugnis 証し」「Befehl 命令」「Rechte 掟」「Gebot 戒め」「Wort 言葉」「Wege 道」が和声的に歌われ、この先の「律、掟」の類語が紹介される。即ち、いわゆる‘ NOEMA ノエマ(名前)’の手法で、各声部が重要な言葉を同時に発するため、まずは聴き手に誤解の余地無く伝わるのである。
第1合唱陣と第2合唱陣がノエマで応答する箇所「Ich bin ein Gast auf Erden この地上でわたしは旅人(19)」にハッとさせられ、また「Die Stolzen おごり高ぶる人(21)」や「Meine Seele liegt im Staube わたしの魂は塵にまみれ(25)」などの惨状がこの世には存在することを知らされる。こうした心の苦悩を歌う内容に照らし、小アンサンブルと合唱が交互に歌う。
各合唱陣から神に願う言葉が繰り出され、「Neige mein Herz zu deinen Zeugnissen 傾けて下さい、わたしの心をあなたの諭しへと(36)」で両陣一致する。また「Erquicke mich 生命を与えて下さい(40)」では両陣掛け合いとなり、言葉とリズムが人間を実際に活気づけて行くさまを実感することが出来る。「Ich will dein Gesetze halten allewege, immer und ewiglich わたしはどこにいてもあなたの律法を守ります。常にとこしえに(44)」では間髪をいれぬ掛け合いによってクライマクスを迎え、3拍子に変る。そこでは神の律に生きるもの楽しさが「Ich wandele frölich ほがらかに歩き回ります(45)」と歌われ、リラックスした雰囲気を伝える。
この曲ではシュッツが自分の葬儀の礼拝説教でテーマとしてくれるようにと頼んだ詩節「Deine Rechte sind mein Lied im meinem Hause あなたの掟はこの仮の宿にあってわたしの歌となりました(54)」が歌われる。両陣の掛け合いで7小節に亘って歌われ、全曲を通じて非常にエネルギッシュな表現で、シュッツの生涯や作曲態度を偲ばせる部分である。 さらにこの詩節に導かれる直前には「Ich bin entbrannt über die Gottlosen 神なき人々に対して怒りが燃え上がる(53)」なる言葉があり、ここにもシュッツの内面を露わにする音型が使われている。
「Ach daß die Stolzen müssen zuschanden werden ああ、傲慢な者たちが恥に落とされますように(78)」なる詩節で‘Ach ああ’が両陣掛け合いで七回 繰り返される。この「七」という数字は「非常に多い」ことを表すのだが、この部分のシュッツの和声進行はC→C→G→G→d→d→aというものでその堂々たる響きはまさに「公憤」といった趣きである。その後もう一度‘Ach’に始まるフレーズがあるが、ここではG→G→C→C→a→aと頭を垂れるような進行で支えてくれた人たちへの感謝が歌われる。
迫害されている者の悲痛な叫びである。小アンサンブルにより、各パート一人づつの編成で演奏される。先唱ののち「Ich hoffe auf dein Wort 御言葉を待ち望んでいます(81)」との言葉が各パートから一人二人と歌い出されるが早くも5小節目では8声が同時に「dein Wort 御言葉を」と声を合わせる。切迫した状況である。「Ich bin wie eine Haut im Rauche わたしは煙に煤けた革袋のようだ(83)」との言葉は聞きなれぬ表現であるが、イスラエルではぶどう酒の入った革袋を煙で燻して熟成させたとのことである。
8声部同時に8分音符で細かく語られる「über meine Verfolger 私を攻めまくる者たち(84)」では、槍に刺され石に打たれる人の痛みがそのまま伝わってくる。しかし詩人の語る「Ich habe alles Dinges ein Ende gesehen, aber dein Gebot währet 全てのものに終わりのあるのを見たがあなたの戒めは存続している(96)」との言葉にシュッツは19小節もの時を与え、虐げられた人の堅い信仰を伝えるのである。
詩人は「掟」の素晴らしさを「es ist ewiglich mein Schatz それは永遠にわたしの宝(98)」と賛美する。シュッツは「ewiglich 永遠」の言葉を無限に続く円運動のようなリスムに託し、ここでも17小節という長い時間、同じ言葉を繰り返させて、「永遠」を表現している。第一合唱を小アンサンブル、第二合唱を合唱団という編成。
「軽薄な二心の人を憎む」という先唱で始まるこの曲では、4声部または8声部同時に同じ言葉を唱和する部分が頻発する。その言葉は「Gesetze 律法」「Wort 言葉」「Boshaftigen 悪人」「Stärke mich 強めて下さい」「Rechten 掟」「Zeugmis 諭し」「Gebot 戒め」「Befehl 命令」などですべてしっかりと歌われる。反対に「ihre Trügerei ist eitel Lügen 彼らの嘘を弄ぶさま、それこそが嘘そのもの(118)」では「eitel Lügen 混じり気のない嘘」と歌う8分音符が薄く軽く飛び交う。両陣とも合唱で歌われる。
「Deine Zeugnisse sind wunderbarlich あなたの諭しは素晴らしい」との先唱を受けて「darum hält sie meine Seele 故にわが魂はそれを守ります (129)」と8声部同時に歌い出す。このような応答の仕方はこの曲が初めてである。また各パートが2拍づつの間隔を守ってカノン風に登場する「Dein Wort ist wohl geläutert 御言葉は精錬されています(140)」の純粋な響きは「精錬」なる言葉そのものである。8声部同時という場面には何度も遭遇するが、最初の「wunderbarlich 素晴らしい」との言葉がその度に証明されるかのように響く。この曲も合唱のみで演奏される。
「Ich rufe von genzem Herzen わたしは心からあなたを呼びます(145)」と始まるこの曲は「alle Rechte deiner Gerechtigkeit währen ewiglich あなたの義の教えはすべてとこしえに続く(160)」との壮大な言葉で終る。シュッツがこの最後の言葉につけた音楽は24小節にも及ぶ。無論「währen ewiglich とこしえに続く」を表現しているのであるが、この部分は長いばかりでなく各パートの「währen 続く」につけられた旋律も広音域でダイナミックである。第1合唱を小アンサンブル、第2合唱を合唱団が歌う。
これまで首尾一貫して歌われてきた「神の律」はいよいよ最終段階を迎える。なんといっても驚かされるのは最後の一節である。詩人は突如「Ich bin wie ein verirret und verloren Schaf わたしは迷っていなくなってしまった羊のようです。suche deinen Knecht あなたの僕を探し出して下さい(176)」と語る。シュッツの音楽はこの展開の意外性を鋭くまた暖かく捉え「suche, suche 探して,探して」と短く2度づつ畳み込むように歌わせる。この部分のリズムも旋律もまた和声も、神の側からの大きな愛をただ信じ切る人間の純朴な祈り、懇願が聴き取れ、老シュッツの子供のような信仰に触れる思いである。「 Ich vergesse nicht deiner Gebote わたしはあなたの戒めを忘れません(176)」との言葉を最後に頌栄に入る。
詩編119の最後の節はそのまま詩編100に雪崩れ込む。ここでは、全世界が歓呼して主を賛美する喜びと共に「Er hat uns gemacht 主はわたしたちを造られた」との言葉によって創造主と被造物の関係が明らかにされ、「わたしたちは主の民、その牧の羊」との言葉がはっきりと歌われる。あとからあとから現れる羊。16分音符のコロラトゥーラで歌われる「Schafen 羊たち」はそのくるくるとカールした巻き毛の様子もそのままに楽譜から飛び出してくるかのようである。シュッツの用いた象徴法や音画の技法は音楽に留まっているのではなく、この世のあらゆるものに姿を変え、直かに人の魂のみならず身体にも大きな影響を与えるのである。
《白鳥の歌》の最後としてシュッツが残した歌、それはに聖霊によって「イエス」が胎内に宿ったことを知らされたマリアが感極まって声を挙げる賛歌である。彼の遺作に「イエス」が出現することは必然である。しかし、これはまたなんという登場の仕方であろうか。なんというた初々しさ、慎み深さであろう。マリアの抱いた、未だ生まれざるものへの期待は、幼子のような信仰に生きる者たちすべてを祝福し、その魂と身体に活気を与えることだろう。
以上。