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ムシカWeb通信


■ 2009/10/11 <パウロ>終了!

 10/2 まず朝から雨。お昼頃本当のざあざあ降りとなりました。私のせいです。大切な日には必ず雨が降ります。どんな晴れ男、晴れ女がいても私がいるともうおしまいです。ひとつだけ弁解するなら、雨が降った方が結果が良い。この日の<パウロ>もなかなかうまくいったのでは!?

 今回の<パウロ>には「セルパン」という木管楽器が初めて登場しました。奏者は我が国を代表するセルパン、テューバの専門家、橋本晋哉さんです。1993年の<パウロ>ではこの楽器がまだなく、テューバを用いました。スコアではファゴットの下に書いてあるパートで、木管群の低音を支えます。かなり太い蛇が身体を右に伸ばしたが壁にぶつかり左に曲がり、またもやぶつかって右に、を繰り返したような姿。セルパンは「蛇」という意味ですが、他の楽器と同じように、外国語をそのままカタカナで表記しますので、「蛇」とは書きません。

 歌のソリストに関しては先回の反省点が多々見つかり、今回はソプラノを3名、テノールを2名で役柄を分けて歌うことにしました。このオラトリオにおいて、純粋に一人一役はバスの「パウロ」のみです。ソプラノにはかなり性格の異なる役柄が混在しており、一人で受け持つとなると、声音をどんどん変えてゆくことが要求され、そこだけが名人芸的なものが優先してしまう危険も出てきます。先回は<パウロ>上演そのものがアグネス・ギーベルの発案でしたから、ソプラノは勿論ギーベル先生お一人でした。これはこれで見事な「声」と「歌唱」を堪能することが出来て良かったと思います。テノールは佐々木正利さんが「語り手」「ステファノ」「アナニア」「バルナバ」「イエスの声」をすべて受け持たれました。「パウロ」は宮原昭吾さんでした。

 今回の「パウロ」は浦野智行さん、「語り手」を及川豊さん、「ステファノ」「アナニア」「バルナバ」「イエス」のアリアを真木喜規さんが歌いました。「パウロ」の浦野さんは無論のこと、テノールお二方の性格の異なる声と音楽性がそれぞれピタリと役にはまり、話の筋が明確に伝わったと思います。ソプラノは「天使、聖霊、イエス」などの超越的な響きを持つハイソプラノの歌うアリアや台詞を今村ゆかりさん、また伝道に旅立つパウロとバルナバの気持ちを歌ったソプラノアリアを柴田圭子さん、そしてどちらかといえば中音域が多く人間の話声に近い「語り手」を淡野弓子が受け持ちました。またアルトのレシタティーヴォは依田卓さん、同じくアリアを影山照子さんが歌いました。

 歌い手を役柄で分けよう、とはもともと今回の指揮者淡野太郎の考えでした。私自身は伝えるべき内容を、大袈裟に言えば「身を挺して」語る、いわゆる「福音史家」のような役柄は一度は歌ってみたい、と思いつつも、バッハの受難曲などはテノールと決まっていますから、まあ生まれ変わったら、の願いでした。が、この<パウロ>の語り手はソプラノとテノールなのです。おっ、ひょっとしてこのソプラノの「語り手」、これは私では? 

 今更言うことでは無いかも知れませんが、私は声と歌には自信がありませんので、「これは私に」という思いは、歌に関しては持ったことがないのです。私より適役の人が必ず存在するからです。が、しかし、これは・・・太郎のオーディションを受けよう、と決心し、その旨伝えると彼はしぶしぶ「ん、じゃまあ歌ってみて」。オーディションへやっと漕ぎ着け、数々の注文付きであったにせよこの役は私に。

 さて本番。「目覚めよ、と呼ぶ声あり」の旋律が深い淵から立ち上り、代わる代わる現れる楽器群や転調、そして3拍子のフーガを経て全地に広がって行くさまが見事に書かれた序曲。コンサートマスター瀬戸瑶子さん以下、オーケストラ「シンフォニア・ムシカ・ポエティカ」の奏者一人一人の生命力が全歌い手に伝わり、続く合唱の「Herr! 主よ!」へ。導入というよりはすでに感極まった音色! パウロとはどんな人で何をした人? との素朴な疑問はこの序曲と続く合唱で、満身の期待へと変ったように感じました。人はどんな時に自分の生命を投げ出すのか? 

 この曲がこうして流れ出すまでに、歯を食いしばらないと通過出来ないポイントがいくつかありましたが、パウロの語る「捕縛、投獄、死が待っていようとも、私はエルサレムに行く。自分の決められた道を走り通す。」の言葉に、どれほどの力を得たことか。宗教音楽のどこが魅力かと問われれば、常に主人公がこの世の常識を超えた人物で、そのような人々の魂を音によって直に感ずることが出来、それによって自分の心も身体も人生も大きく変わるというところでしょう。「エエッ?」と思われたら実際に歌ってごらんになることをお勧め致します。

 長くなりますので、ひとまずこれで。


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