ドレスデンでの展示を成功のうちに終え、先頃帰国した蘆野ゆり子の報告です。400年前のドイツの音楽が奇しき縁に結ばれて日本にもたらされ、その感動が形を変えて再びドイツで今を生きる人々の心と繋がったのです。人の身体には時間的な限界がありますが、精神のエネルギーは永遠に生き続けるのですね。感無量です。[Y.T.]
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 2009年1月15日(木)から 3月1日(日)まで、ドレスデンのクロイツ教会内にある展示会場で、シュッツのヨハネ受難曲、バッハのマタイ受難曲、ヨハネ受難曲、マルコ受難曲、メンデルスゾーンのオラトリオ”エリア”、”パウロ”を含め、42点のカリグラフィーを、ザクセン州ルター派教会美術工芸プロジェクトの主催で展示しました。
2001年夏以来、2度目の展示です。昨年、教会の内装がすっかり改装されてきれいになり、展示用の照明も整っていました。 オープニングの木曜日、ツィルクラー牧師からの歓迎の言葉、プロジェクトのドクター・シュミットの作品解説、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団フルート奏者ブロイァーさんと、旧州立劇場のフルート奏者ランフトさんの演奏、 プロジェクトの展示担当のブッセさんの挨拶で、6週間にわたる企画がスタートしました。
厳しいドイツの冬の展示で、果たして見に来る人がいるのかどうか不安でした。案の定、初日、16日の金曜日は、会場を訪れる人はまばらで、売店の人から、「これでも読んだら」と、教会の火災を綴った小冊子(1216年に建てられたクロイツ教会は5回も火災にあっている)を渡されました。2日目、土曜日の午後は、夕方の礼拝のために練習する少年合唱団の歌声が響きわたっていました。練習が終わると、指揮者クライレ氏に率いられて訪れた少年たちで、展示会場はいっぺんに賑やかになりました。彼らが歌う土曜日の夕拝や、日曜礼拝には、会場を埋め尽くすほどの人々が集まってきます。礼拝が終わると、初日とはちがって、多くのひとが立ち寄ってくれ、作品説明や、カード、カレンダーの購入者への対応に追われました。
その間、二月に東京で別の作品展を予定していたので、いったん日本へもどり、展示終了前の4日間、再びクロイツの展示会場に立ちました。この間、新聞に、展示開催の記事が掲載されたこともあってか、前半とは異なり、毎日見にきてくださったオーストラリアはキャンベラからのご婦人、わざわざベルリンから見に来てくれた若いカリグラフィー愛好家、旅行で立ち寄ったというドイツ滞在中の若い日本人、嘗て少年合唱団員だったという年配の方、「次はゼレンカ(Zerenka)や、ハッセ (Hasse)を書いてほしい」と、CDと楽譜を持ってきたドレスデンカトリック教会の合唱オジさんなど、とにかく手ごたえ十分な展示に我ながら感謝感激、心中快哉を叫んでしまいました。ちなみに、ゼレンカもハッセも、ドレスデン宮廷で活躍した音楽家です。音楽の歴史と文化が有機的に息づいている土地柄を感じさせられます。
クロイツ・コーアの音楽監督(Kantor)、クライレ氏の新しい部屋には2つの作品、ルドルフ・マウエルスベルガーの「なんと荒涼たるこの町よ」(Wie liegt die Stadt so wuest)(1945年2月13日の空爆で廃墟と化した町を悼んで作曲されたこの曲が崩れたままのクロイツ教会で初奏されたということを、展示を見にいらした年配のご婦人から伺いました)と、シュッツの "Musikalische Exequien" が掛けられることになっています。
展示を見たツィッタウ(Zittau)の聖ヨハネ教会の牧師さんの希望で、急きょ3月18日から、ドレスデンの東方70㌔あまり、ポーランド、チェコ、ドイツ3カ国の国境の町ツィッタウで展示が移動開催されることになりました。
帰途、ドレスデンの北西260km、ドイツ北部ニーダー・ザクセン州のブラウンシュヴァイクに立ち寄り、聖ミヒャエリス教会で5月の作品展示の打ち合わせ。ハノーファーから 500km 南下してミュンヘン。そのあと乗り継いだ機内で隣り合わせた若い日本人女性が、「えぇ! わたしドレスデンでみましたよ」。
多くの方々に支えられ 、ドイツ中部平原の酷寒の旅にも耐え、今回の展示はお陰さまで無事終了いたしました。東京H・シュッツ合唱団員として歌い続けることができたことに改めて感謝です。 あしの