茜の見たがるTVとは正確にはDVDです。三種類あります。
その1)「蝶々夫人」の映画(イタリア語)
その2)Signing Time!(英語)
その3)S次郎という人気キャラクターが子供達と歌ったり踊ったりする教材DVD(日本語)
その1の「蝶々夫人」は中国人の歌手とフランスのオーケストラで勿論西洋ベルカント、時に「ひどく日本人風」の発声の人が出てくるのもなかなかリアルです。
その2、Signing Time! というのは、自分の子供の耳が聞こえない、ということを知った母親が作った手話のVideoでこれには感心させられます。ひとつひとつの単語と手話をその母親と数人の子供、時に赤ん坊なども出て来て、繊細かつ明朗、大胆に説明し、誤解の余地なく言葉と身振りが伝えられて行きます。
問題はその3)です。日本語のDVDなので、茜には必要だろう、ということで取り寄せてみたものなのですが、前の二つと根本的に違うのが「声」なのです。S次郎は愛すべき虎のキャラクターですが、残念なことに「造り声」なのです。しかし茜はこのS次郎の大ファンで、日に数回は見たがります。
私は、「人間の声」は「個人の私物」ではなく「人類の声」であると考えています。人が「自分の声」に出会った時、それは果てしない宇宙からの贈りものであったことに気付くでしょう。宇宙をひと巡りしたような「声」を媒体とすれば、その「声」はあらゆる役を、あらゆるキャラクターを演じることが可能になるはずです。正体不明の「造り声」からは、どれほど工夫重ねたとしても、その役柄の個性は伝達されません。
我々西洋音楽と格闘している者は、日本や中国の伝統音楽の発声はすでに完成しており、極まったものである、と認識しています。歌舞伎や京劇の声を私は「造り声」とは思いません。練り上げられた藝術の声です。日本人のそこここで良く耳にする「造り声」とは次元を異にするものです。
ここでやっと問題の核心に入るのですが、西洋の音楽修辞学で作曲された西洋、特にドイツの歌曲の音楽構造を用いながら、日本の詩をそのまま旋律にのせた日本歌曲には、詩の流れや内容と音楽が乖離している場合がままあり、歌うのが非常に難しいものが多いのです。さらに詳しく言うならば、心に感じた詩の情緒と、音楽の弁論術や音画的発想が一つではなく、音楽は音楽として進み、詩は詩として進んでいるように思えるものが多く、詩を歌い上げようとすると、どうしても表現を造らなくてはならなくなるのです。そのため、人間の持つ自然の感情がそのまま「声」に巡り会うことが難しいのではないでしょうか。エルンスト・ヘフリガーがドイツ語に訳された日本歌曲を歌っているCDをお聴きになれば、私がここで言っていることの意味がさらに具体的にお分かり戴けると思います。ヘフリガーは「日本語の詩」が「ドイツ語に翻訳されたテキスト」を歌っています。ドイツ語に変わった途端、言語の文法と音楽の文法が一致し、音楽と詩は誤解の余地のない状態となり、ヘフリガーの名唱とあいまって「日本語よりいいのでは」と評判になりました。
かつてアグネス・ギーベル女史は我々の声を聴きながら業を煮やし、「どんな歌でも良いから日本語で歌ってごらん」と仰ったのですが、「そ、その日本語で歌うと、さらに奇妙なことに・・・・」と私。母国語なら自然に声が出るだろう、とはまさに欧米人の発想です。伝統音楽と西洋音楽という全く異なる発声方法を持つ二つの歌い方の間を毎日右往左往している我々の現実を、ギーベル女史に説明し納得して戴くには、私はもう一度生まれ直してこなければなりません。
元東大総長にして無教会派のクリスチャンであった南原繁氏は、日本人が西洋発声の修得途上で出す声を聞かれ、「亡国の民の声」と評されたとか。かくいう私自身も、20代〜40代半ばまでは「亡国の民」の一人でした。このような声を出していては「国が滅びる」とは、恐ろしくも的を得た戒めと言わねばなりません。しかし、なんと評されようと、走り出した心は獲物を得るまで走り続けます。走っている最中にに出くわした、あんなこと、こんなことをいくつかお伝え致しましょう。
ベルギーのテノール歌手、ツェーガー・ファンダステーネ氏は五カ国(フラマン、フランス、ドイツ、イギリス、イタリア)の言語がたちどころに口から迸り出る、という方ですが、日本でのリサイタルではよく日本歌曲を歌われます。この方の日本語はまことに美しく品があり、われわれ日本人は心して学ばなければならないところが多々あるのです。氏は数多くの言語を通して、どの言語にも欠けてはならない重要な要素を体得されたのだと思います。
ファンダステーネ氏のエクササイズは、身体全てを解放し、大きな深い息を使い、瞬時にエネルギーを取り入れて瞬時にそれを外に出すというもので、これを繰り返すうちに、楽器としての人間の身体の地力が向上し、筋肉同志の連携も徐々に理想に近付くというものです。これは時に、剣道の練習で発せられる声に良く似たところがあり、日本人が古来求めて来た「丹田」を使う呼吸法とも共通するところがあります。
ミネアポリスで桃子が師事しているエリザベス・マニヨン先生も東洋医学でいう「径絡」のことを良く言われるとか。西洋のベルカントも東洋のエネルギーの入れ方、出し方を随分取り入れているのですね。マニヨン先生は現役時代はメトロポリタンのオペラ歌手でした。マニヨン先生のもとで学んだ歌手たちには各国のオペラ・シアターで活躍するような人材も多く、かのジェッシー・ノーマンもその一人です。
アグネス・ギーベル女史から徹底的に叩き込まれたこと、それは、「声帯で母音を捉える」「子音を声にするな」でした。この二項目は実は一つのことなのですが、言い代えれば、「流れる息の通過する場所(母音=声帯、子音=舌、唇、歯、口蓋など)を間違えるな」ということです。
これらのヒントやエクササイズを経て、私の身体は少しずつ「楽器」に変わって行き、あれほど苦手であった日本語で歌う、というハードルもなんとか越えようとしています。これはあくまでも私自身の体験ですが、「日本語」で歌えるようになったのは西洋発声技法開眼後のことでした。日本語の五十音はカタカナもひらがなも母音と子音を分けては表記しませんので、日本人は無意識のうちに子音を声帯で歌おうとしてしまい勝ちなのですが、これが起こった途端、声帯は「纏足化」し、息が流れなくなり、にわとりが首を絞められたような声になります。これは30代のころ、我が子に童謡一曲まともには歌ってやれなかった私の状態です。今ごろになって、やっと孫にいろいろな日本語の歌を毎日歌ってやることが出来るようになりました。これらの童謡(汽車汽車ポッポッポッポッ、迷子の迷子の子猫ちゃん、どんぐりころころ などなど)はいわゆる日本歌曲とは違って、歌詞と音楽の関係が見事なものばかりです。この違いは一体なんなんだろう、などと余計なことを考える前に、今回の話はひとまず終了と致しましょう。
S次郎のDVD鑑賞体験は日頃書きたいと思いながら果たせなかった「声」についての思いが一挙に吹き出すきっかけとなりました。S次郎くんに感謝。 Y.T.
お帰りなさい。(^o^)毎回、blogを楽しく読ませていただいております。今回のお話は、いつも、先生がお話くださったことを、深く掘り下げてのお話、正しく理解、拾得するには、何年もかかると思いますが、、一つ私自身について言えることは、メンデルスゾーンコアに入り、歌っていて心地よい時間が増えたことです。唯、なかなか、体を解放し、大きな深い息という肝心のことが、頭では分かっていても、身体では体得できないのが、、、でも先生が随分と時間がかかったとのこと、あきらめず、根気よくするしかないんでしょうね。これからもよろしくお願いします。m(_ _)m
さっきメンデルスゾーンコアの練習を聴き、疲れが飛びました。成田から直行した甲斐がありました。合唱では、より普遍的な発声を学ぶ事が出来ると思います。私自身、いろいろな先生の教えを受けましたが、合唱の指揮をしながら皆さんの声に接することが出来たこと、これは何ものにも代え難い貴重な体験でした。あとは「続ける」ことでしょうか。