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ムシカWeb通信


■ 2008/02/04 淡野弓子より

 皆様、無事今朝の目覚めを迎えました。

 70歳を迎える日にソロで歌をお聴き戴く、などということは夢にも考えたことがありませんでしたので、今はただ自分でも驚き、このようなお恵みを天から、そして皆様から戴きました幸せを感謝しております。以下は今夕のプログラム・ノートです。一足早く皆様にお目に掛けます。お寒い中恐縮でございますが雪も止んだようですので、コンサート(市ヶ谷ルーテルセンター・午後7時開演)にお運び戴けるようでしたら、ほんとうに嬉しいことです。                 

                                 

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 小学校に入った年だったと思いますが、母が「病気の女の子が書いた日記よ」といって、『薔薇は生きてる』を私に呉れたのです。山川弥千枝という肺結核で16歳の時に生命を亡くした少女の、7歳から亡くなるまでの短歌、童話、日記に、ところどころ彼女自身の描いた挿絵が入っていて、表紙はオールドローズでした。

 私は山川弥千枝から、そして『薔薇は生きてる』から強い影響を受けたと思います。私の2人の子供の教育のことで真っ先に考えたのは、キリストの教えに触れさせねば、ということでした。2人とも教会の日曜学校に通い、その後洗礼を受けクリスチャンとなったのですが、これは私の信仰からというよりは、弥千枝が7歳の時に書いたという次の文章を忘れることが出来なかったからです。               

 「大きくなったら、おくさまになって、子どもにいろんなことおしえよ。そしていいことおしえよ。そしてみせやにいって、いいものかお。

  大きくなったら、子どもにイエス様のこと、話してやりましょう。子どもが、かわいそうと、なくでしょう。それから私も、僕も、そんな人になりましょうと、いいますよ。そして私も、僕も、そういう人になりたいというでしょう。」                   

 私の育った家には父方の祖母がいて、観音菩薩の話、阿弥陀如来の話を私に語って聴かせ、私は毎日仏間で祖母と一緒に、正信偈、阿弥陀経それに般若心経をあげさせられていました。(血縁のクリスチャンは母方の祖母とその姉妹たち、母の妹などです。)私の、意味の分からない言葉でも平気で唱えるという神経と、ドレミファもそれ以外の音階もOKという音感はこの3、4歳の頃に身についたと思われます。この祖母が「岡本かの子」の名をよく口にしていたのです。恐らくかの子が観音経の講話でもしたのを直かに聴いたか、または本を読んでいたからだと思います。祖母の「岡本かの子さん」には尊敬の念が感じられましたが、私の母はいささか違うニュアンスで「あら、岡本かの子って大変な女性よ」と言っていました。

 かの子は21歳の時岡本一平と結婚したものの、一緒に暮らしてみれば一平の凡俗さにつり込まれることに恐れを抱き、自分だけは藝術を求めて努力しようと決心します。一平は一平で、結婚前には魅力と感じていたかの子の純情、おおらかな性格、そして激しい藝術志向が、すべて青臭く、阿呆らしく思え放蕩三昧。かの子は、堀切茂雄という早稲田の学生と恋愛関係に入り、太郎のあとに生まれた豊子という女の子を生後八ヶ月で死なせてしまいます。外で遊び耄けている一平は生活費を渡さず、家の中に電灯もつかないという悲惨な状況に追い込まれ、かの子はついに強度のノイローゼで精神病院に。一平もさすがに頓悟、かの子を彼女のなりたがっている小説家にしてやろうと決心します。

 堀切茂雄は一時かの子の家に一平、太郎ともども暮らしていたことがあったほどでしたが、肺結核を患い亡くなります。一平もかの子も心の建て直しを計るべく、植村正久牧師のもとでキリスト教と聖書にふれますが、これはうまくゆかず、やがて親鸞の「歎異抄」に出会い仏教の研究に没頭します。かの子28歳のころのことです。このころまでにかの子は、すでに歌人として多くの短歌誌に短歌を発表し歌集も刊行しています。歌人としてのかの子は瀬戸内寂聴が額田王や和泉式部と比べたほどの天賦の才に恵まれていましたが、どうしても、と欲した小説は書けども書けどもうまく行かず、『鶴は病みき』という芥川龍之介をモデルにした小説が世に出たのは1936年、かの子47歳の時でした。彼女が亡くなったのは1939年2月18日、小説家として生きたのは僅か3年です。 

 彼女の小説の規模、量ともにこれがたった3年間の、と誰もが驚くことと思いますが、岡本かの子について述べようとすると、その作品をはるかに上回る人生そのもののドラマとダイナミズムに圧倒されます。さらに彼女の小説には、己の無意識も潜在意識もこの現世の意識もすべてをごたまぜにした言葉が、唇からも手からも迸り、氾濫しています。さらに彼女は異性に対しても無防備で、ちょっといいな、と思った程度の男でも、天の選んだわが分身と思い込み、相手に雪崩込んで行きました。夫と住む家に恋人を同居させるという常識ではあり得ない生活も、過現未を同時進行させて生きていた女性にとっては必然であったのでしょう。                             

 

 さて、私は高校生となり、いよいよ将来の目的に向かって受験する大学を決める段階に入りました。声楽科を受けたいな、と言いますと父は、音楽は趣味に留めよ、声楽などはもってのほかという意見でした。母は、自分の血筋に西洋音楽の作曲家で指揮者という専門家がいるが、「彼の兄弟たちは皆学者よ」となんとなく学者のほうが偉いような口ぶり。祖母に至っては、唄うたいは河原乞食といってね、と横を向きます。それでも母だけが消極的理解を示してくれ、家族との間に立ってくれました。

 高校の音楽の岩永輝先生は「えっ、あなたが声楽を! 作曲かと思ったわ」と仰り、のちに「あの子は声楽だけでは我慢が出来ないと思う。まあ見ていましょう。なにをやりだすか」と教官室で担任の先生に仰ったとのことです。はっきりしていたのは、声楽をやりたい、というにはあまりに私の声が小さかったということです。藝大時代の恩師磯谷威先生は「声楽をやるなら現代音楽か宗教音楽。しかし弓ちゃんは指揮がいいだろうね」と右も左も分からぬ21歳の私をいきなり合唱の現場へ放り込まれたのでした。

 自慢ではありませんが、私は65歳ぐらいまで自分の歌を誉められたという経験がありません。よく平気で歌ってきたものだと思います。ただ、合唱団を始めた時に、これからは自分が歌えるようにならなければ、合唱団の成長というものはあり得ない、と肝に銘じ、声の研究には真剣に取り組みました。

 これまでに書いたプログラム・ノートを見ると1990年の10月現在、私は 「a」と歌いたいのに「ア」と止まってしまう悩みを述べています。この問題はアグネス・ギーベルの「歌うのは声帯、口は歌わない」という教えによって50%解決し、その後ツェーガー・ファンダステェーネの徹底的に喉の奥を明ける技術によって残りの50%が解決しました。また個人的にはお目にかかったことがないのですが、イヴァ・バルテルミというフランス人のオペラで歌っておられた方は、一つの筋肉の運動に連動して起こる次なる筋肉の動きを重要視されておられるということを伝え聞き、大変なヒントとなりました。即ち筋肉が次から次へと良い方向に連動して行く場合の最初の動きは正しく、逆に悪循環を起こす動きは間違っているということです。また一つの正しい動きは二つの異なった効果をもたらすこともあるということ、例えばフランスのトマーティス博士の言うように耳を開くと、それはそのままバルテルミ女史の教える完璧な喉の解放に繋がるのです。

 今夕のプログラムはほとんどが日本語で歌われドイツ語のものは4曲に過ぎません。これまで私は、時代様式とか作曲家を優先していたのでしたが、今回は皆様にお伝えしたい詩や小説の言葉と内容に重きをおいて選曲したためです。グリーグの作品はそのグループで歌われる歌の雰囲気を調えるためのもので、いわば背景や小道具です。

 最初のグループでは「喪失」がテーマです。まずゲーテの詩によるグリーグの「薔薇のときに」が失われた青春の無惨なさまを語ります。続く<マザーグースの歌>では、ユーモラスに見せかけながらぞくっとくるような切り口で、なんにももたない老婆、すっからかんの男、そして子供を失った親の話が歌われます。

 吐いた息のあとに空気が肺に入って来るように、次のグループでは徐々に生気が甦ってきます。グリーグの「王女」はわがままで、牧童の吹く笛を「止めて」と言ったり、止めれば「吹いて」と言って少年を翻弄します。しかし自分は寂しさに耐えきれず「神様!」と言って泣くのです。太陽は沈み、王女は真っ暗な部屋で呆然と暗くなった空を見つめます。この「王女」は続く山川弥千枝の病床での姿と重なります。

 「湯気」は弥千枝13歳の作品です。「手風琴」と「風の中の桜」が14歳、「ばらは生きてる」は口語短歌で13歳から15歳のもの85首のなかの一首です。この4編の詩をウォン ウィンツァンの音楽でお届けします。。

 グリーグの「白鳥」、平生は鳴き声を上げない白鳥が死ぬ前にただ一声啼く、と歌います。続く弥千枝の「窓際で見た空のひろさ」は、続く「ああ、わたしは空の全部を見たい」までが短歌で、その後の「黒い雲が・・」からは<無題>という14歳の時の詩です。最後の「バラの花よ」も短歌です。この2曲は武久源造の音楽です。

 前半最後のグリーグは「夢」。夢で見たことが本当に起こった、という、信じられないような喜びを歌った詩です。私は夢を見るたびに人間の脳の働きの不思議を思わずにはいられません。そして、その夢をもとに、思い出や空想を繋ぎ合わせて、自分の人生の未来へ思いを馳せる人の心の不思議にも驚嘆せずにはいられません。現実と夢は本当のところどちらが真実なのでしょう。                   

 後半の『扉の彼方へ』は、かの子が死の1年前に発表した作品です。それぞれにつらい体験をし傷付いた男女が、不思議な巡り合わせで結婚式を挙げ、お互いを熱情によってではなく、思いやりによって理解し合い、無理な抑制からではなく、相手を大切に思う気持ちから肉欲を超えた愛の時間を過ごし、やがて静かな本当の大人同士の夫婦になって行くという筋書きです。 「樫の木と蒟蒻」という副題は岡本かの子が付けたものではありません。話の中でこの二つが面白く使われ、気の利いたアクセントになっているので、作曲に携わった私たち3人の考えで副題としました。 

 登場人物は語り手の「私」、私の良人「及川」、私の前の恋人「珪次」、私の「母」で、「及川」の台詞(12音)は武久「私」「母」「珪次」の台詞はウォンの作曲です。文章の部分は朗読にウォンのピアノと武久のオルガンによる即興がからみ、時に応じて淡野の即興ヴォーカリーズが挿入されます。

 日本には、日本語の表現方法が数多くあり、作曲に際しては取捨選択に迷う程です。また西洋音楽の言葉の表現の仕方やレトリックに基づく作曲法も応用することが可能です。私たちは今、世界のあらゆる国のあらゆる時代の音楽素材を手にしており、多国籍料理ならぬ多国籍音楽を創作する自由を持っています。『扉の彼方へ』も変化に富んだ素材が思わぬところにひょいと顔を出し、意外性に溢れた楽しい作品となりました。

 1994年の6月24日に演奏した岡本かの子の幻想譚『小町の芍薬』も3人がこのような方法で作った作品でしたが、こんな曲をもっと聴きたい、と言って下さった方々に今日やっとお応えすることが出来、嬉しく思っています。これもウォンさん、武久さんのような本物のクリエイターに出会えたからこそ実現したのです。この幸せを皆様と分かち合えるとはなんという喜びでしょう。

 最後になりましたが、これまでの皆様のご交誼、ご友情に心から御礼申し上げます。残る生命がどれ程のものかは神のみぞ知るですが、これからも素晴らしいと感じた言葉や音楽を皆様にお伝えして行けたらと願っております。どうぞ今夜はゆっくりとお寛ぎ下さいませ。         

                2008年2月4日 たんの・ゆみこ


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