わたくしたちが「レクイエムの集い」を初めて開催したのは、1984年11月11日(日)であった。聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂をお借りしてシュッツの「ムジカリッシェ・エクセクヴィエン(音楽による葬送)」ほかを演奏した。
翌1985年はシュッツ生誕400年、バッハ、ヘンデル生誕300年という大変な年で、ドイツはもとより世界の各地でこの三人を記念して大々的な催しが計画されており、わたくしたち東京のシュッツ合唱団も旧東独政府から正式の招待を受け、かの地で歌うこととなっていた。
本来ならば真っ先にご報告したかった恩師 磯谷威先生、詩人の尾崎喜八氏、作曲家のクラウス・プリングスハイム氏などがすでに亡くなられていた。何はともあれこれらの方々にレクイエムを捧げたいと思ったのが直接のきっかけである。また「わたしが死んだらいったい誰がレクイエムを歌ってくれるのだろう」と悲しげに呟いたドイツ婦人がおられた、という話を聞き、ではもっと多くの方に声をかけ、その方々のお名前をプログラムに掲載させて戴いて、共に音楽を聴きながら追悼の集いとしよう、ということになった。
今年もこの「集い」を11/2(金)、東京カテドラル聖マリヤ大聖堂においてメンデルスゾーンの<エリヤ>とともに開催する。ソリストの一人羽鳥典子さんから若桑みどり先生のお名前が寄せられた。先生の熱情溢れる数々の著作はわたくしも枕元から離したことがなく、特に「薔薇のイコノロジー」は愛読している。
以下は羽鳥さんがご自身のブログに記されたものであるが、お願いしてここに転載させて戴いた。
若桑みどり先生の思い出
羽鳥典子
昨日夕方新聞を開いた途端、若桑みどり先生の訃報が目に飛び込んで来た。しばらく身動きができなかった。最近無性に先生に会いたくて、どうしようかと考えていた矢先だった。
心不全による突然の死。71歳。直前まで精力的に活動なさっていたようのなので、まわりの近しい人達はどんなに驚き、嘆いていることだろう。そのエネルギーに引き込まれて、いつもまわりに人が集まって来る方だった。
若桑先生は、美術史界では知らない人がいない大学者であるが、私が学生の頃は音楽学部でイタリア語を教えていらした。私はそのつたない生徒であったのだが、イタリア留学を志した頃から公私共に大変お世話になった。そして良くおしゃべりをした。まだ大人になっていないひよっこを相手に、実に様々なお話をして下さった。大学からの帰り道、根津の駅までの10分では足りなくて、何度喫茶店に寄り道したことだろう。私には、それは楽しくも、刺激的な一時であった。あの頃、先生に伺った様々な話が、今の私の背骨を作っているといって良い。それ位影響を受けた。それなのに、この何年かお会いするのに躊躇があったのは、私がちゃんとしていなかったからなのだ。
志を持ち、まっすぐ妥協せず、ひたひたと歩んで行くのに男も女もない。先生の背中は私にそれを教えてくれた。そして、私がふにゃふにゃになりそうな時は、一生忘れないようなアドヴァイスを下さった。先生、私は今でもそれを大切に守っています。(守ろうとしています。)
とてつもなく偉い人だったが、一方ユーモアに富み、可愛らしい方だった。世俗的な出世や名誉などには一切興味がなかったと思う。男性達が、政治的な臭いのぷんぷんする訳のわからぬ酒席で酔っている間に、ひたすら研究をし、著作を次々と書き上げて行かれたのだ。本当に恰好良かった。「大学者に酒飲みはいません」みどり語録。
2年前の年賀状のお返事に、「やっと公職から解放されました。やりたいことが思う存分やれるようになりました。」と書いてあった。最近は美術史から広がって、ジェンダー、従軍慰安婦問題、教科書問題にまでその活動を広げていらしたようだ。その底にあったのは、理不尽なことに対する怒りではなかったか。
今日迷った末お通夜に行って来た。ご無沙汰したままいきなりのお通夜は、「痛恨」である。でも行って良かった。ご無沙汰していた間の先生に出会えたような気がしたから。私のように先生の背中を追いかけている若い人達が、たくさん育っているのが分かったから。昔一度会ったことのある、小さかった息子さん達が立派な大人になり、「小さい頃さんざん子守歌を歌って貰ったから、そのお返しに」と、母に捧げる歌を歌ったのを聞けたから。(2007年 10月 4日)
羽鳥さま<br>お悔やみ申し上げます<br>先生のことは 傍ながら よく存じあげておりました<br>つい先日他界しました私の恩師は またその先輩でもありました・・・「高桑さんがねえ・・・」という話をよく耳にした記憶がございます。「イコノロジー研究」の時代は はるか過ぎたのですね。