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ムシカWeb通信


■ 2007/04/20 瀬尾文子 その三

 月曜日と火曜日は、コンサートがありませんでした。月曜日は日中に、それぞれ一時間半ずつのパート練習がありました。午前中はアルトとバスのパート練習だったので、ソプラノ3人で三時間かけて裏山をハイキングをしました。クラウディアは3人の子持ち、ブッカには3人のお孫さんがいますが、お二人の健脚ぶりには参りました。翌日筋肉痛になったのは、たぶん私一人で、そのことは口が裂けても言えませんでした。ここでは靴のせいにしておきます(私だけブーツでした)。もう一人のソプラノ、イルゼは相変わらず忙しそうに、街に食料品(果物やケーキやノド飴など)を仕入れにでかけていました。

 午後一番にソプラノのパート練習をし、そのあとアルトのドロテーアの車に乗って、女性4人でフライベルクにでかけました。ここの大聖堂で、とうとうゴットフリート・ジルバーマンのオルガン(1714年製作)を聴くことができました。私たちはとても運が良かったのです。というのは、大聖堂は夕方4時で見学終了で、私たちが到着したのはジャスト4時でした。係の人が門を閉めているところに出くわし、交渉することができたのです。グループなら交渉しだいで入れてくれるようです。そして、たまたま大聖堂オルガニストのディートリッヒ・ヴァーグラー氏が大オルガンでブクステフーデのプレリュードを練習していました。良い手で作られ、良く鳴らされ、長い年月を経て教会の広い空間となじんだプレーノの音というのは、残念ながら日本では聞けません。それはもうherrlichの一言に尽きるような音でした。オルガン席で聴くのと一階席で聴くのとは違うとはわかっているけれど、自分で鳴らせたらさぞ気持ちいいだろうなぁと思いました。ちょっとやってみたかったです。

 オルガンの音と聖堂内の芸術作品をたっぷり堪能したのち、カフェに入って一服しました。日本人観光客の典型パターンは何でも必ずカメラに収めることですが、ドイツ人は必ずカフェに入ってケーキを食べます(自分たちでそう言ってました)。今回の演奏旅行では、私もみんなと一緒に、3日連続でケーキを、それもドイツならではの特大サイズのケーキを平らげました。鏡をみるのがこわいです。でも、ザクセン地方特有のEierschekeというケーキは、これを食べて太るんなら太ってもいいやと思うくらいおいしかったです、本当に。

 ついでに食べ物のことを書くと、宿の食事は、朝はふつうの朝食で、昼間にあたたかい料理(ヴルストとザワークラウトとジャガイモというような典型的なドイツ料理)、そして夜はこれまた典型的なkaltes Essenでした。パンとチーズとハムで、種類が日によって変わるくらいです。けっしてまずいわけではないけれど、この3種類ばかりでよく飽きないと思います。私は最後の方は正直言ってうんざりでした。

 翌火曜日は、午前中に全員練習をし、午後はまた周辺の街にでかけました。最初は半分くらいのメンバーで、ハイデナウという街の老人ホームに住む一人のおばあさんを訪ねました。彼女はフランクさんと言って、エピにとって特別な人なのです。というのは、フランクさんはベルリンで長いこと看護婦として働いていて、エピの教会員でもあったのですが、エピにオルガンを建造することになったとき、多額の献金をしてくれたのだそうです。彼女の経済的支援がなかったら、あのオルガンは作れなかったと言います。私もあのすばらしいオルガンを練習や礼拝で弾かせてもらっているので、ではということでご一緒しました。20分くらいホームに滞在して、こういうちょっとした機会のときによく使う歌集『Ars Musica』から、ヴルピウスの《Frau Musica》ほか数曲歌いました。

 その後、エルベ川のほとりにあるピルナという街を訪れました。ここは2002年のエルベ大洪水で大変な被害にあったところです。ある建物の壁に、過去の洪水でどの辺まで水が来たかの印があったのですが、2002年のそれは飛びぬけて上の方にありました。私たちが到着したのは午後の3時を回っていて、残念ながら、もうどこの教会も博物館も閉まっていて見学できませんでした。そこで、例のごとくカフェに入りました。ゴットフリートはどうしても教会や修道院を見学したかったらしく、メンバーの携帯電話を借りてあっちこっちに交渉していましたが、ぶっつけなのでやっぱりダメでした。ドイツでは何事も事前に予約しないとダメなのです。そこで、みんなで丘の上のゾンネンシュタイン城に登りました。ここは、ナチスが「T4計画」で1940‐41年におよそ1万5千人の身体障害者、知的障害者を安楽死の名のもとに毒ガス殺害あるいは薬殺していたところです。初めは何も知らないで登ったのですが、歩きながらジークフリート&ラインヒルト夫妻が教えてくれました。(続く)

 

コメント(1) [コメントを投稿する]
_ Harry 2007年04月20日 22:26

2002年夏、私はICEでBERLINからDRESDENに向かっていました。ICEは途中で徐行しはじめ、NEU STAAT Hbfで降り、旧市街を横切り、冠水したHOTELで1夜を過ごしました。橋が冠水する前に、ほうほうの呈で、ZUGでBERLINへ戻りました。歴史的なHWASSERに遭遇してしまった私でした。


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