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ムシカWeb通信


■ 2015/04/06 祝・復活祭

 随分長いことご無沙汰してしまいました。昨年のバッハ《マタイ受難曲》のCDリリース、今年の<受難楽の夕べ>シュッツ&ペルトの準備と本番、クロイツ教会のPassionsmusik、本郷教会の「SDG」復活祭のカンタータ演奏、その下をかいくぐりながら5/1の<人形・歌・朗読の夕べ>の準備などなどで毎日が過ぎて行きました。

 そして4/5(日)復活祭を迎え、がんばってカンタータを2曲演奏したのです。バッハという人の興味深い性質には毎回驚かされていますが、今回も例外ではありません。以下、淡野太郎の解説をご覧戴ければ幸いです。

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 バッハのカンタータの伝えるもの

 カンタータ第6番 《我らと共に留まりたまえ、日も暮れるゆえ》

 カンタータ第134番 《おのがイエス生きたもうと知る心は》

                         淡野 太郎

 今年もイースターを迎えました。我が国では知名度の点でクリスマスに大きく水をあけられていますが、キリスト教にとっては最も重要な日であり、例えば正教会など宗派によっては、クリスマスよりも遥かに大事にされているお祭りとなっています。バッハの時代のルター派教会では、日曜日から始まって火曜日までの3日間が祭日とされていましたので、直前の金曜日に受難曲を演奏し、1日置いた後に続けざまに3日連続でカンタータを演奏するという、バッハとその周囲の演奏者たちや門下生にとっては大変に忙しい時期となっていました。本日はその特別な時期のために書かれたカンタータ群の中から復活祭第2日と第3日のために書かれた2曲を続けて演奏致します。バッハ赴任当時のライプツィヒでは、復活祭の初日にはトランペット3本やティンパニといった鳴り物入りの華やかなカンタータが演奏されるのが常でしたが、2日目と3日目はその反動というわけでもないのでしょうが、金管も打楽器もなし、あってもトランペット1本だけという編成のものばかりなので、楽譜を一見するだけでは比較的地味な印象です。しかしそれぞれの曲にバッハが様々な工夫を凝らした様子が窺え、主の御復活の喜びを表現するものとして、編成の少なさを補って余りある名曲が揃っています。

 カンタータ第6番 <我らと共に留まりたまえ、日も暮れるゆえ>

このカンタータは復活祭第2日のために作曲されました。前述の通り金管や打楽器は登場しないものの、オーボエ属の楽器が3本使用され、トゥッティの時には音色にそれなりの厚みがあります。この日のために定められた聖書の朗読箇所のひとつは、ルカによる福音書第24章、エルサレムから60スタディオン(約11キロ)離れたエマオという町へ向かう2人の弟子のそばに復活されたイエスが現れるというエピソードです。話の内容は宮崎牧師による朗読をお聞きいただくとして、この話の中でバッハがおそらく着目したであろうポイントのひとつとして「登場人物は3名(弟子2人+イエス)」という部分は押さえておきたいと思います。3という数字が神を表わす特別な意味を持っていて、バッハは楽譜の中にその数字を表わすものをいくつも配置していることはこれまでにも触れてきたことですが、詳しくは各曲ごとの解説に譲ります。

 ※ 本日の演奏では都合により、第1オーボエのパートをリコーダーによって演奏致します。何卒ご了承ください。

 第1曲 合唱 (合唱4声部、オーボエ×2、オーボエ・ダ・カッチャ、ヴァイオリン×2、ヴィオラ、通奏低音)

 まず器楽編成から見ていきましょう。オーボエ属が3本、通奏低音を除く弦楽器が3声部(ヴァイオリン2部+ヴィオラ)で、この2グループに通奏低音グループを加えた3グループによる器楽陣です。そして冒頭は4分の3拍子で始まり、途中2分の2拍子になる中間部分を経て、最後にまた3拍子に戻る3部構成です。歌詞は2人の弟子がイエスを引き止めた時の福音書に記されている台詞がそのまま使われており、特にbleib bei uns(私たちのところに留まってください)という言葉は幾度となく繰り返され、弟子たちが熱心に引き止める様子が描かれています。2拍子になる中間部ではこの言葉が3音節であることを生かし、主に同じ音を長めに3回繰り返すという音の使い方で印象付け、その形は時として合唱パートが歌わなくても器楽パートだけで出現し、歌詞がないのにbleib bei unsという言葉が聴こえてきそうなほど強烈な表現です。圧巻はこの2拍子部分の終盤、合唱4声部が一斉に同じGの音で(ただし音域が全パート違うので、音域は3オクターヴに及ぶ)bleib bei unsと歌うところで、この熱心さによって救い主の恵みにあずかれたということをこれでもかと強調しています。そして冒頭と同じテンポに戻ってからも数回この言葉を繰り返しますが、第1曲全体を通して見ると、このbleib bei unsという言葉は(先述の器楽のみによる表現も含め)全部で33回繰り返されることになります。いやはや、恐れ入りました。

 第2曲 アリア (アルト、オーボエ・ダ・カッチャ、通奏低音)

 アルトのソロにオーボエ・ダ・カッチャのオブリガートと通奏低音の3声部のみという小編成で、調性は変ホ長調(フラットが3つ)、8分の3拍子で軽快に進みます。真摯な祈りの歌ですが、第1曲と同じくここでもbleib(留まってください)という言葉が登場し、この言葉も何度も繰り返され、bleibまたはbleibeという単語が計12回歌われます。12はイスラエルの各部族の数で、3の倍数でもあります。また歌詞は6行で、3の倍数です(必然的に脚韻も3回踏まれています)。さらに小節数はダ・カーポで繰り返される後奏も含め129小節で、これまた3の倍数です。この小節数が偶然とは思えないのは、曲の冒頭から常に4小節の間に1フレーズという単位で進行していたのに、ダ・カーポの直前、後奏の始まる前にわざわざ1小節分の前振りを挿入している(この小節がなくても音楽的には成り立つ)ことです。実にバッハらしい、徹底した作り込みといって良いのではないでしょうか。この曲と次の第3曲にも共通点がありますが、その解説は次の項に譲ります。

 第3曲 コラール (ソプラノ、ピッコロ・チェロ、通奏低音)

 前の2曲と同じく、ここでもbleibという言葉が登場します。3曲に亘って「留まってください」と懇願したことになります。拍子は2分の2拍子で、ようやく3から離れたかと思いきや、ピッコロ・チェロ、ソプラノ、通奏低音の3声部であることは第2曲と同様で、主に中音域を受け持つ楽器にオブリガートと担当させている部分も共通しているので、曲のスタイルはだいぶ違うのに、場面は変わらず弟子2人とイエスの3人のシーンが続いているように感じさせます。第2曲のオーボエ・ダ・カッチャもですが、それほど登場頻度の多くない楽器のソロを立て続けに聴かせているのは、この弟子たちとイエスの邂逅がいかに特別な出来事であったのかを強調しているのではないでしょうか。

 第4曲 レチタティーヴォ (バス、通奏低音)

 エマオで弟子たちがイエスの姿が見えなくなったのは、「信仰のある者でもイエスを、道を見失うことがある」という戒めの部分もあります。また彼らが「暗くなりますから」と引き止めたのも、闇を怖れる人間の弱さを象徴しています。この日のためのもうひとつの聖書朗読箇所はペトロによる説教ですが、このレチタティーヴォの内容もまさに説教といった感じで、自分が光の中にいると安心していても、いつでも闇がそばにあって、ともすれば簡単に呑み込まれてしまうことを警告しています。それは通奏低音が中盤でじわじわと半音ずつ下降していく形でも示されており、「イエスの姿を見たからといって安心せず、闇に少しずつ沈んでいる自分に早く気付きなさい」と諭しています。

 第5曲 アリア (テノール、ヴァイオリン×2、ヴィオラ、通奏低音)

 第4曲の説教を受け、再び真摯な祈りを捧げます。前奏のヴァイオリンやテノールの歌い出し部分の旋律は減音程を含む跳躍を伴う不安定な動きで、道に迷っている自分を自覚しているかのようです。第1ヴァイオリンが担当する旋律も同じ音型を何度も繰り返したり等、素早い3連符があちこちに飛び交い、まさに迷走状態といった感じです。かろうじて第2ヴァイオリン以下の各パートが着実なリズムを刻むことでフレーズの最後はいつも和音に揃って終わるようにできているあたり、神の御手に引き寄せられ、再び信仰に立ち帰る信徒の姿を象徴しています。

 第6曲 コラール (合唱4声部、オーボエ×2、オーボエ・ダ・カッチャ、ヴァイオリン×2、ヴィオラ、通奏低音)

 第3曲の解説では触れませんでしたが、第3曲でのコラール2節とこの第6曲のコラールは、音節、行数が一致しているものの作詞者は3節それぞれ全部違うという、ちょっと変わった構成となっています。しかし祈りの内容は一貫しており、己の弱さを自覚し、ひたすらに主の救いを待ち望むという真摯な姿勢です。4行それぞれの終止和音はト短調・ニ長調・変ロ長調そしてト長調とすべて違い、「信徒たちの心がほうぼうに離散してしまっても、最後はまた心をひとつにするために導かれる時が来る」という期待感を表わしているかのようです。                                          

 カンタータ第134番 <おのがイエス生きたもうと知る心は>

 こちらは復活祭第3日のためのカンタータですが、この曲には原曲があり、バッハがケーテンに赴任していた時、1719年の新年祝賀のために作曲した世俗カンタータ《日々と年を生み出す時は》 BWV134aが下敷きとなっています。元が祝賀用ですから、器楽編成的には地味でも、全体的に喜ばしさに溢れ、快活な印象がずっと続くような内容です。バッハはその特徴を活かし、ひたすらに主の御復活を喜ぶ歌に書き換えたわけです。元の曲がよほど自信作だったのか、1724年の初演時にはBWV134aの声楽用パート譜の音符だけを弟子たちに丸写しさせ、後から教会カンタータ用の歌詞だけを書き加えるという形でこの曲を完成させています(器楽パートは筆写すらせず、そのまま使用しました)。しかし実際に演奏してみると、特にレチタティーヴォ部分の音と歌詞に違和感を覚えたのか、再演時には3曲あるレチタティーヴォをほぼ全面的に書き直し、さらにその後で総譜を書き直し、他のアリア部分にも手を加えています。このようにバッハは、一旦完成した曲でも推敲を重ね、演奏のたびに(時には演奏機会がなくても)書き換えることがしょっちゅうで、細部のディティールにこだわる職人気質(言い換えればオタク気質)の人でした。それだけ手を加えた甲斐もあって、今日ではこのカンタータは特に完成度の高い作品として評価されています。

 第1曲 レチタティーヴォ (アルト、テノール、通奏低音)

 短いレチタティーヴォで幕を開けます。歌詞を見る限り、テノールとアルトの立場にはあまり違いがありませんが、テノールはセッコ・レチタティーヴォで語る一方、アルトはアリオーゾで流れるように歌い、それぞれの方法で喜びを表現します。

 第2曲 アリア (テノール、オーボエ×2、ヴァイオリン×2、ヴィオラ、通奏低音)

 軽快な8分の3拍子でテンポよく進みます。大部分が長調の和声ばかりで構成されていることが、この上なく喜ばしい様子を表現するのに大いに貢献しています。テノールの歌詞の歌い出しのaufという単語は「上に」という意味の前置詞ですが、単独で使われる時は「よし」とか「さあ」等、行動を促す間投詞として機能します。テノールは「嬉しくて元気があり余ってしょうがない」かのようにこのaufという言葉を何度も繰り返し、音型も本来の意味である「上に」を示すかのように高音域に向かって跳躍する形が頻発します。終始このテンポで進み、楽譜に書いてあるだけでもかなりの長さがあるのですが、ダ・カーポして全体の半分ほどをもう一度繰り返すという、「この嬉しさを表現するにはいくら歌っても歌い足りない」とでも言わんばかりの喜びようです。

 第3曲 レチタティーヴォ (アルト、テノール、通奏低音)

 またテノールとアルトによるレチタティーヴォです。説教者として講解するテノールと、信徒として祈るアルトの立場の違いはあるものの、根底にある救い主への信頼感では一致しており、基本的に迷いなく話が進んで行きます。

 第4曲 2重唱アリア (アルト、テノール、ヴァイオリン×2、ヴィオラ、通奏低音)

 第1ヴァイオリンが急速な分散和音で、救い主の凱旋をきらびやかに飾り立てる中、アルトとテノールは息の合った重唱を展開します。歌のパートも上に下に軽やかに動き回り、嬉しそうな雰囲気は終始衰える気配がありません。

 第5曲 レチタティーヴォ (アルト、テノール、通奏低音)

 第1曲、第3曲とは違い、テノールも一信徒の立場で祈りを捧げます。アルトが引き続きセッコのままで語りますが、最後のPreis(称讃)とDank(感謝)の部分は旋律的になり、喜びを包み隠すことなく表現します。

 第6曲 合唱 (合唱4声部、オーボエ×2、ヴァイオリン×2、ヴィオラ、通奏低音)

 第2曲と同じ拍子、同じ調、同じ器楽編成で、しかし今度は歌がソロではなく合唱で、こぞって神を讃美することの喜びを共有します。第2曲もかなりの長さでしたが、この第6曲はそれを更に大きく上回り、「讃美の声が永遠に終わることがないように」という願いと感謝に満ちあふれています。

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 本日は少し長めのカンタータを2曲演奏致しますが、シュッツの《神はそれほどまでに世を愛された》 SWV380を最後に歌うのはいつもと同様です。面白いもので、演奏するカンタータが違うと、後で歌うこの曲については違って感じる部分と、全く変わらない普遍的な部分の両方が味わえることです。この2つの要素の両方をいつも大事にして歌いたく存じます。

 2015年4月5日  たんの・たろう


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