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ムシカWeb通信


■ 2012/12/24 ムシカ・ポエティカより 皆様へ 冬のご挨拶を

 いつの間にか冬となり、クリスマスを迎え、あっと言う間の二〇一二年でした。皆様、お元気でしょうか。

 今日、一二月二四日、東京は気持ちの良い朝を迎えました。夕方午後五時より本郷教会(杉並区上荻4-24-5  03−3399−2730  JR西荻窪より北へ徒歩10分)においてバッハ《クリスマス・オラトリオ第一&三部》を演奏致します。お時間がおありでしたら是非お出かけ下さい。詳細:当サイトスケジュール欄にて

 

 ご報告■その一

 二〇一二年一一月一六日(金)午後七時開演 終演午後九時

 〈レクイエムの集い〉東京カテドラル聖マリア大聖堂

 今年は名だたる音楽家が相次いで亡くなられ、また親しくして戴いた方々・・・一九六四年から五年にかけてヴェストファーレン州立教会音楽大学で共に学んだ近藤恭子さん、そして先便でもお伝え致しました盟友鈴木仁さんのお名前も追悼のページに・・・・。

曰く言い難い思いで迎えた〈レクイエムの集い〉でした。

 半ば私事ではありますが、一〇月中旬に小学校の同窓会が開かれました。折しも北朝鮮が平壌の龍山墓地の遺骨引き取りを対話の材料として持ち出してきたということがあり、昔小学校で机を並べていた友達の廣田一穂さんが、その頃から「平壌(ピョンヤン)」の地名を口にしていたのを思い出して、彼に「ピョンヤンのこと、まだ覚えてる?」と訊いてみたのでした。

 「覚えてるもなにも、僕は母と一緒にお祖母さんをそこに埋葬してきたんだから」

 その数日後、彼から最近書いたおトシ祖母さんの「一代記」が送られて来ました。十数ページを超す長いものですが、あらすじは次のようなものです。

 〜〜トシは、和田秀豊という芝教会の牧師を父とし、兄弟二人は洋画家として世に名を知られる和田英作、香苗である。東京音楽学校でオルガンを学び、同級や周囲の校友に滝廉太郎、柴田(三浦)環、山田耕筰らがいた。滝廉太郎は母校ピアノ科の助教を勤めていたが、まもなく官費留学生としてライプツィヒ音楽院に派遣される。しかし、ドイツ到着早々に結核となり一年後に帰国するも他界。二三歳であった。当時の医学事情から遺品はすべて焼却され、その中には膨大な遺作ノートも含まれていたという。

 は明治三四年に卒業。男女共学の音楽学校で、男女を問わず臆せずに自分の意見を主張する彼女の伴侶選びは決して易しいものではなかったが、ここに自由民権運動の運動家であった廣田善朗という人物がいた。善朗は保安条例に触れて「皇城三里外」に放逐を宣告され、米国で美以(メソジスト)教会の牧師として働いていた。トシは三六年に米国に渡り善朗と結婚する。夫婦の間に二人の男の子が生まれ、子供の教育は日本でという夫婦の希望で、トシは子供を連れて帰国。長男は卒業後米国に戻り、トシは建築技師となった次男美穂と共に日本に残って、のちに美穂の赴任した満州新京へ移住。そして日米開戦。トシは日本が夫と長男家族の住む米国と戦争を始めた事が面白くなかった。アメリカを知っているトシには日本に勝ち目のないことは本能的に分かっていた。普段周囲に居る人に相手かまわずそれを話したがり、美穂やその妻啓子(一穂の母)は気が気ではなかったという。その頃、三浦環は西洋歌曲の活動を禁じられて山梨の実家で静かに暮らしていたそうだ。

 昭和二〇年の初夏、一家は新京から疎開のため南下、着いたのが朝鮮の平壌だった。ここで敗戦を迎える。トシは、飢餓と栄養失調から発疹チフスの症状も現れ、二十一年五月に他界した。火葬が困難なため、日本人の遺体は市内から北方に約一二キロの龍山墓地に土葬することになっていた。廣田トシの棺は手押車に乗せられ、嫁と孫、厚意で会葬した日本人四名によって、なだらかな斜面の途中にスコップで窪地を作り横たえられた。辺りに郭公が鳴いていた〜〜〜〜

 

 この「一代記」には青山四郎という名前も登場します。この名前に記憶がありました。トシには六歳年上のチマという姉がおり、四郎はひょっとしてその四男? ウィキペディアで調べると、やはりそうでした。チマは日本基督教会牧師、青山彦太郎と結婚とあります。四郎は、中野区白鷺のルーテル神学校(現・武蔵野教会)の教師となる・・・。

なぜこんなことまで書いているかといいますと、私は小学校時代に、このルーテル神学校の日曜学校で青山四郎先生のお話を聴いたことがあるのです。

 まことに人の縁とは異なもの、このトシさんのお話はとても他人事とは思えなかったので、一穂さんに「トシさんのお名前を追悼のページに掲載させて戴けませんか?」とお願いし、

【廣田トシ(旧姓和田)明治三四年東京音楽学校オルガン選科卒。昭和二一年五月、満州新京より日本への途上で没。平壌龍山墓地に眠る。】

の一行を記すことに決まったのでした。

 最初にお名前を記させて戴いた近藤恭子さんは、東京カテドラルで三〇年ものあいだソリストとして数々の式典で歌われたアルト歌手ですが、同じころ平壌で、トシさんの「一代記」にも疎開の集合地として出て来た新京の白菊小学校に通い、終戦を迎え、艱難を乗り越えて日本に引き揚げてこられたことを知りました。別々と思っていたお一人お一人の生活が、ある時期、計らずも同じ場所で営まれていたという事実に接し、重い歴史がドドッと音を立てて迫って来るのを感じました。

 コンサートの日、最初と最後にバッハのモテット(カンタータ一五八番)を演奏しました。葬儀の後、教会から墓地へ柩をかついで行進する際の音楽だそうです。雨に濡れてもよいように、金管楽器と共に演奏されます。私たちにとっては初めての曲でしたが、驚かされたのはその明るさ、迷いのなさでした。ひたすらに先へ、先へ、といったこのモテットが映し出したのは、死者たちが歓声を上げ、列をなして天国へ凱旋して行く姿でした。

 

 ご報告■その二

 一一月二五日(日)午前一〇時〜一六時三〇分

 〈日本声楽発声学会第九六回例会〉 横浜国立大学 教育文化ホール

 この日の午後には「『日本歌曲』について作曲家の立場から」と題し、作曲家・ピアニストの尾高惇忠氏の特別講演がありました。現学会理事長の米山文明先生の発案で、詩に曲をつける作曲家の立場(尾高)、歌唱する声楽家の立場(淡野)、演奏を聴く立場(米山)の三者鼎談形式でそれぞれの考えを述べる、というものです。

 惇忠氏はシンプルな名曲の範例として石川啄木詩・越谷達之助作曲の《初恋》を推されました。また日本語の美しさ、奥の深さを表現するに際し、その言葉が実際に語られるテンポを大切にされると述べられ、井伏鱒二の「逸題」を作曲された際の工夫を説明して下さいました。 

 また、また同じ詩(三好達治「甃のうへ」)につけられた中田喜直と尾高惇忠の作品も紹介され、《初恋》に始まるこれらの歌の数々が夫人でメゾ・ソプラノの尾高綾子さんと惇忠氏のピアノによって実際に演奏されるというまことに興味深い時となりました。

 私の述べたことは、主として以下のようなものでした。

 ▽日本語は片仮名、平仮名、漢字で表記し、聴いただけでは分からない言葉が多くある。さらに漢字には音読み、訓読みがあり、日本語を作曲するのは相当に難しいことなのではないか。

 ▽日本語で歌う、ということも容易ではない。日本歌曲を歌う前に外国語を三カ国語ぐらい学んで、母音の感覚や共鳴の違いを研究する必要があるのではないか。

 ▽日本語を歌詞とする曲にも、多種におよぶ邦楽を根とするもの、後期ロマン派から現代に至る形式を欧州から学んだ作曲家の手になるものがあり、この両者の発声技法はおのずと異なってくる。しかし実際には両者の混淆が多い。日本歌曲の演奏会で、同じ曲でもそれぞれの歌い手が全く違う発声で歌う、という場面にも遭遇し、解決に向けての研究、努力の必要を痛感した。

 ▽以前エルンスト・ヘフリガーがドイツ語に翻訳された日本歌曲(《赤とんぼ》《浜辺の歌》ほか)を歌ったCDを聴き、響きの美しさと旋律の流れが自然で流麗であることに驚いた記憶がある。我々日本人に大きな示唆を与える録音であった。(現在絶版・中古品購入可能)

 ▽西洋音楽史を繙けば、すでにルネサンスからバロック期にかけて、修辞学に基く音楽創作学が確立していたが、このような言葉と音との関係は日本語の文法と作曲との間に存在し得るのかとの疑問。

 ▽西洋も啓蒙主義の時代を経て、かつては宇宙の法則であった音楽に

各作曲家の人間としての感覚、情緒が表面に出て来たため、主観の勝った芸術に変化していったとはいえ、音楽が「学問・科学」として存在していたヨーロッパの伝統を忘れてはならない。

 ▽日本語が自然に聞こえ、歌いやすい日本歌曲というものはどのようなものだろうか。実際に歌う側から考えるとすれは、西洋のバロック期に盛んであった「レチタール・カンタンド」、即ち語りつつ歌い、歌いつつ語るといった旋律は日本語にもマッチするのではないだろうか。

 そのような作品の一例として長岡輝子詩・尾高惇忠作曲の《小さなネグレス》(ネグレスとは黒人の女性のこと)を取り上げ、作曲者のピアノ、私の歌で皆様に聴いて戴きました。                 

 米山先生のお話は「フォルマント」についてでしたが、この単語や現象の説明は簡単なことはありませんので、時と場を改めてお話したいと思います。

 

 記録■ソリ・デオ・グローリア(賛美と祈りの夕べ)

 於:日本キリスト教団本郷教会礼拝堂

 聖書朗読:宮崎 新

 器楽:ユビキタス・バッハ

 合唱:ハインリヒ・シュッツ合唱団・東京

    &メンデルスゾーン・コーア  指揮:淡野太郎

 一〇月一四日(土)午後六時 第282回

 バッハ★カンタータ第四八番「我悩める人、我をこの死の体より」    シュッツ★モテット

 一〇月二七日(日)午後六時 第283回

 バッハ★カンタータ一〇九番「我信ず、尊き主よ、信仰なき我を助けた  まへ」 シュッツ★モテット

 一二月二日(日)正午(主日礼拝直後) 第284回

 バッハ★カンタータ一四七番「心と口と行いと生きざまもて」 シュッ  ツ★モテット  

 この日は初めての試みとして、礼拝直後に〈ソリ・デオ・グローリア〉が開催されました。礼拝の説教内容と音楽が繋がり、恵みの時を実感しました。

 

 これからのコンサート  

 詳細はTopPageのチラシをご覧下さい。

 皆様のご参会を心よりお待ち申し上げております。

 チケットのお申し込み

 e-mail : yumiko@musicapoetica.jp または

 FAX : 03-3998-5238 にどうぞ!

 お名前、ご住所、お電話、枚数を明記の上、「郵送希望」「当日受付にて」をご指示ください。

「第九」のチケットはこのサイトからもOKです。

 

 二〇一三年一月一四日(月・休)午後二時 新宿文化センター大ホール

 ムシカ・ポエティカ特別公演

 メンデルスゾーン《詩編》ベートーヴェン《交響曲第九番》

 指揮者・淡野太郎よりのコメント

ベートーヴェンの《交響曲第九番》に施された繊細な作業のひとつひとつを可能な限り丁寧に拾い上げると、作曲者の拠り所となっている信仰の根幹が鮮明に浮かび上がってきます。発音を明確に、譜面に忠実に、また音楽の基本に忠実に演奏することによって、彼の目指した真の幸福、歓喜の一端に迫りたいと考えています。一方、《詩編第四二編》と《二つの宗教歌》も作曲者メンデルスゾーンの深い信仰に裏打ちされた名作です。これらの作品と「第九」を並べることによって、新たに見えて来る部分も大事にして、演奏に臨みたいと思っています。

 

 二〇一三年二月四日(月)午後7時開演 東京文化会館小ホール

 淡野弓子/小林道夫[歌曲の夕べ]

 メゾ・ソプラノ■淡野弓子 ピアノ■小林道夫

 歌い手よりのメッセージ

 二月四日は私の誕生日です。この日満七五歳になる予定です。七〇歳の九月、指揮者のポジションを淡野太郎に委譲し、以来五年間、自分の「声」に集中することが出来ました。米国で優れた声楽の教師に出会い、様々なことに目覚め、屈託なく歌う喜びを味わっています。

小林先生との練習も順調に進んでいます。先生は八〇歳になられるとのこと、去る一二月二二日には恒例のバッハ《ゴルトベルク変奏曲》演奏会に伺いました。星のカケラが散りばめられたような三〇の変奏曲、それは、すでに完成された一音一音でありながら、未来へ向かう求道の響きでもありました。

[歌曲の夕べ]、皆様のご参会を心よりお待ち申し上げております。

 

 下記コンサートの詳細は追ってお知らせ申し上げます。

 二〇一三年三月二二日(金)午後七時

 《受難楽の夕べ》淡野太郎指揮・シュッツ合唱団 東京

 ルドルフ・マウエルスベルガー《ルカ受難曲》 シュッツ■モテット 

 

 お知らせ

 CDハインリヒ・シュッツの音楽Vol.3《ルカ受難曲》★四月二二日にリリースされました。好評発売中! 定価2625円(税込)

 CDハインリヒ・シュッツの音楽Vol.4《ガイストリッヒェ・コーアムジーク 一六四八年》全二九曲★一月一四日、新宿文化センター《第九》コンサート会場にて先行発売! 定価3000円(税込)

 

 ★「国際ハインリッヒ・シュッツ協会日本支部事務局ニュース第一一号(二〇一二年一二月一五日)」に掲載された「ハインリヒ・シュッツ合唱団・東京 40年の軌跡(8)」は間もなくUpされます。

 

 本年賜りました皆様からのお支えに心からの感謝を!

 祝福に満ちたクリスマス、

 善い新年をお迎え下さい。

   二〇一二年降誕節  

    ムシカ・ポエティカ 淡野弓子


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