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ムシカWeb通信


■ 2008/08/21 8/24(日)はかなり贅沢なサマー・コンサート

 先週末、8/16(土)と8/17(日)にはシュッツの<Symphoniae sacrae シンフォニエ・サクレ>の練習をした。コンサートは8/24(日)本郷教会(杉並区上荻4-24-5) にて。午後5時開演。

 <シンフォニエ・サクレ>とは器楽の混ざった声楽作品で‘サクレ’の言葉通りテキストは聖書の言葉である。独唱曲、2〜6重唱曲にそれぞれの内容にふさわしい楽器が加わった音楽で、どのパートも独りで演奏する。最後に合唱が加わって大団円となる曲もある。

 どの曲も圧倒的。冒頭2小節ですでに只事ではない、という音の世界である。1989年から2001年かけて行われた「シュッツ全作品連続演奏」でどの曲も最低一度は演奏しているのだが、その時の印象とはかなり違う。楽器の使い方一つとっても、以前はこの楽器が何本または何挺揃えることが出来るのだろうか、といった解釈以前の問題を解決するのに必死で、それらが目出たくクリアーされた段階でもうすべてが終わったような気分だった。

 今は違う。あの古楽復興運動でピリオド楽器の音の「立ち上がり」や「しない方」、特に楽器が「喋る」ことなどが当時の音楽に必要不可欠のもの、という認識が一般化し、そのジャンルの専門家とアマチュア音楽家の数も驚くほど増えた。シュッツの名作「我が子、アブサロン」に必要なサックバット4本も、今回は楽器も奏者もあっと言う間に揃ったのだ。しかしこれとても、70年代にモダンのトロンボーンで試行錯誤に協力して下さった、いまは大御所のプレーヤー諸兄のご尽力を土台としていることを忘れてはならない。

 シュッツは、歌われる内容や一つひとつの言葉の意味に、一番ふさわしいと思われる楽器を選んで声と恊奏させる。バリトン(ダヴィデ)の独唱曲「我が子、アブサロン」は、ダヴィデが我が子アブサロンを失って慟哭する場面がダヴィデの台詞そのままに4本のサックバットとともに歌われるのだが、たった一種類の楽器、しかし4本(4声)がポリフォニックに絡み、「ダヴィデの涙もかくや!」といった、荘厳にして悲哀の極みといった音が響き渡る。  

 一方ソプラノ(マリア)の歌う「わが魂は主を崇め(マニフィカト)」ではヴァイオリン、コルネット、サックバット、リコーダーがそれぞれ2本ずつ交代して現れ、マリアの胎内にいるイエスの誕生を早くも先取りした喜びが歌われる。この楽器の使い方はシュッツの<クリスマスの物語>のアイディアでもある。

 くどいようだが、音楽史上でも稀に見る傑作といわれている「我が子、アブサロン」一曲を演奏するのも、ひと昔前はある種の「覚悟」が必要だった。「マニフィカト」に至っては楽器の使い方が豪華過ぎて一生に一度の世界である。8/24(日)のサマー・コンサートでは、このほかさらにさまざまな組み合わせで声と器楽が恊働する。器楽を受け持つユビキタス・バッハのメンバー諸姉諸兄も、普段演奏しているバッハのカンタータの下地のせいか、シュッツの意図がはっきり分かる段階に入り、知る喜び、表現する楽しさを満喫の様子、同慶の至りである。

 シュッツ合唱団も40年という時を経て、やっと「そう、その音!」「そう、良し!」という瞬間が増えたように思う。1963年の7月に初めて聴いたエーマン指揮、ヴェストフェーリシェ・カントライのコンサートで、ソリストが合唱のトゥッティも歌うという、シュッツやバッハの時代の演奏の在り方に当時非常に驚き、出来ることなら私たちもそのように、と願ってきたことであるが、いつの間にかシュッツ合唱団もそういう状態を迎えている。今回もメンバーが代わる代わるソロ・アンサンブルに登場する。もともとソリストとしての修業を重ねた羽鳥典子さんは逆に合唱の中で歌うことにも挑戦し、実力に幅がついた。

 私たちは皆「途上」にある。涙の谷、陰府の恐怖もこの世なら、黎明の静けさ、天国を垣間見る瞬間も現し身に与えられた恵みである。ダヴィデは詠んだ。「主を賛美するのは死者ではない。沈黙の国へ去った人々ではない。」[詩編115-17] Y.T.


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