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ムシカWeb通信


■ 2007/04/10 瀬尾文子 ドイツ・エルツ地方演奏旅行記

瀬尾文子さんから愉快な旅行記が届きました。とにかく長いので、一日分ずつ順次お送りします。[Y.T.]                   

                                 

                                 

エピファニエン・カントライの演奏旅行記

 3月30日(金)から4月6日(金)まで、エピファニエン(以下、エピ)・カントライの演奏旅行(エルツ地方)に参加してきました。コンサートの日程は以下の通りです。

3月31日(土)17:00 ツィッタウ、ヴェーバー教会

4月1日(日)16:30 シュミーデベルク教会

4月4日(水)19:30 ラウエンシュタイン、市教会

4月5日(聖木曜日)19:00 グラースヒュッテ、聖ヴォルフガング教会

4月6日(聖金曜日)9:30ハクライシャにて礼拝奉仕、15:00 ベルリン、エピにてコンサート

 宿泊先は、ドレスデンの南25キロにあるシュミーデベルクという街のマルチン・ルター・キング・ハウスというところです。なだらかな丘の中腹にありました。一昨年に建ったばかりという新館に泊まることができ、それがまるで星付きのホテルのようにきれいな部屋だったので、とてもラッキーでした。ベルリンの学生寮生活にすっかり慣れた私にとっては、シャワーのお湯がちゃんと出て、ちゃんと止まるということが奇跡のようで、それだけでシンデレラ気分でした。

 毎日晴天に恵まれ、気温はkuehlというよりfrischと呼びたい空気でした。練習の合間に暇をみつけて、たびたび裏山に登りました。馬も羊も広い空の下でのびのびと草を食んでいました。

 旅行に参加したのは、指揮者を含め、延べ17人です。7泊8日のあいだ寝食を共にして、カントライのメンバーとは、かなり仲良くなることができました。そしてなんだかもう、十年来の付き合いのような気分です。ここでは皆duzenし、ファーストネームで呼び合います。指揮者に対しても例外ではありません。メンバーは大部分が私の親くらいの年齢だし、また、特に指揮者のゴットフリート・マッテーイさんに対しては遠慮があって、私はなかなかDuと呼べなかったのですが、あるとき会話の中で私がSieを使ったら、 Ich bin Gottfried! と言われました。それでそのとき以来duzenしています。

 最初のコンサートは、一番の遠出だった、ツィッタウという街でありました。シュミーデベルクから車で2時間半くらいです。ベルリンから来たときの道を少し戻り、ドレスデンの街のシルエットを東に見ながらいったん北上し、アウトバーンに乗ってひたすら東へ、そして南へ走りました。途中のバウツェンBautzenという街では、あらゆる標識が二つの言語で記されていて、どういうことだろうと思ったら、読めない方はsorbisch(ソルビア語)というのだそうです。西スラブ系の言語で、この辺りではまだ普通に話され、小学校でも教えているのだとか。いまちょっと調べてみたら、言語人口約5万人だそうです。

 それから、ヘルンフートHerrnhutという街を通りました。ヘルンフートといえば、18世紀の前半にドイツの敬虔主義者ツィンツェンドルフの下に集まった信仰共同体です。クリスマスの時期によく教会に飾られる大きな星が、ある家の軒下に吊り下げられていました。宿泊先の部屋に置いてあったLosungen(聖句集)は、ヘルンフート兄弟団が発行しているものよ、と同乗していたソプラノのイルゼが教えてくれました。彼女は物知りで、見るべきもの、知っておくべきものをみつけては、親切に私に教えてくれます。そしてとても世話好きな人でもあり、常に「みんなのために」食料品を持ち歩いています。

 三位一体教会、通称ヴェーバー教会Weberkircheは、ツィッタウは街の端にありました。それほど大きな教会ではありません。収容人数は本郷教会の1.5倍くらいでしょうか。お客さんも20人ほど集まり、夕方5時に開演。さっそくハプニングがありました。プログラムはオルガン独奏から始まるのに、定刻になってもオルガニストがオルガン席に現れないのです。牧師の挨拶も終わって、客席はいまかいまかと演奏が始まるのを待ち構えています。しびれをきらしたゴットフリートが、みんなにGoサインを出しました。そしてシュリックのオルガン曲《Maria Zart》を飛ばして、ジョスカン・デプレのモテット《Ave Christe, immolate》から始まりました。それを歌っていったん席に戻ると、オルガニスト(アルテンブルク出身、クリストフ・ヘルビヒ氏)が二階に現われ、 Ich bin der Organist ! と話し始めました。相当ゆかいなおじさん(年齢74歳)です。なんでも、直前に皆と一緒にお茶を飲んだGemeindehausの建物で、トイレに入っている間に置いてけぼりにされ、外からカギを閉められて出られなくなってしまったのだとか。それで窓をよじ登って脱出したのだと言っていました。漫画のような話です。ヘルビヒ氏は、演奏もとても変わっていました。彼は大バッハのプレリュード・フーガc-mollも弾いたのですが、声部が混んで難しいところになると、あきらかにテンポ・ダウンするのです。毎回のコンサートでそうでした。そのたびに我々はずっこけそうになりましたが、まあ確実に弾くにはいいやり方です。別の日には、シュリックの楽譜を持参し忘れて、急遽別の曲を弾くということもやってくれました。

 コンサート終了後、まだ日が沈むまで時間があったので、市内見学をしました。まずは街の真ん中にある大きなヨハニス教会。なんとあの19世紀前半を代表するプロイセン王室の建築家カール・フリードリッヒ・シンケルの設計だそうです。1500年ごろに建てられたゴシックのホール式教会と、その中にあったジルバーマン・オルガンは七年戦争の戦火で1757年に燃え、その後なかなか再建が完成せずに、1833年にシンケルに白羽の矢が立ったとか。ザクセン第2(だったか?)の大きさを誇るというレギスター数83の巨大オルガンの音も、聴くことができました。

 それから、前々回のシュッツ合唱団のドイツ演奏旅行で歌った Machet die Tore weit の作曲家A.ハンマーシュミットの住んでいた家というのをみつけました。何屋さんだったか忘れましたが「Utas Fundgrube」という名のお店になっていて、言われなければ気づかないような表示板が掲げられていました。(続く)


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