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ムシカWeb通信


■ 2007/02/03 大森雄治(淡野弓子宛の通信)・中村誠一・小西久美子によるドイツ演奏旅行記

  いよいよこの旅行の最終目的地ハイルブロンへ。その前に合唱団メンバーによる記録をご紹介致します。テナーの大森さんは、奥様のソプラノの純子さん、ご長女の恕(ゆき)さんと一緒に参加されました。

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 淡野弓子先生

  先日の演奏旅行は本当にありがとうございました。夏には参加すべきか否かずいぶん迷っていたのですが、おかげさまで私たちだけでなく、娘にとって も意義深いドイツ行となりました。

  Dresden の Frauen Kirche は 94年の瓦礫の山を見ているだけに、同じ場所で再建された教会で歌えるとは信じられませんでした。

  Prohlis Kirche では、先月末にCDを添えてプログラムをお知らせしたのですが、2年前にお世話になった Ringel さんと Loeschau(昨年クラ リネットを吹いた方)さんに再会でき、楽しいひと時を過ごすこともできました。Loeschau さんの息子さんは今では Leipzig でファゴット の勉強を続けているそうです。

  Evangelische-reformierte Kirche では柔らかな響きと熱心な聴衆の中で、得がたい経験をしました。少し耳が開いたと思いました。

  Heilbronn では、市長のすばらしい挨拶が淡野先生のなさってこられたことを省みる機会を与え、この先の道を明るくし照らしているように感じ ました。長い間倦まずたゆまずご指導くださったことを改めて感謝いたします。シュッツをよく知る市長がいるということだけでも驚きでしたが、外国人 がシュッツの作品を歌う意義を端的に述べられ、しかも感謝の気持ちを込めてスピーチされるとは・・・。

  わたしたちがお世話になったお宅は、バスの Werner Lutz さん一家で、お父様の Williさん(ご健在)は Flitz Werner とともに Heilbronn Schuetz Chor 創立に関わった方だそうです。Werner さんは市長と30年来の友人で、大学生の頃に(教会の活動だと思いますが)、現市長らととも に、恵まれない子供たちを集めて、キャンプ、音楽、スポーツなどを援助する組織を作って活動されたそうです。それが今では市の年中行事のひとつに なっているとか。

  奥様の Petra さんは以前アルトで歌っていたそうですが、今は育児と教会の牧師秘書として活動されています。家から数分のところにあるこじんまり とした美しい Ilsferd の教会も案内していただきました。子供達は 8,10,12歳の女の子で、それぞれ、フルートとヴァイオリン、トランペッ ト、トロンボーンを習っていて、合奏もしているそうです。8歳のお嬢さんは、習いたてのフルートとヴァイオリンを演奏してくれました。短時間でした が、恕は Gymnasium の授業に参加し、わたしたちは小学校の見学をさせてもらいました。Katrin さんが娘のために手配してくださったそう です。

  Heilbronn Schuetz Chorとの演奏会では、Boettcherさんの真正面で、Tenorの真ん中というとても良い位置で、(うまく表現できませんが)歌い始めたら 自然に笑顔になって楽しく歌うことができ、このままずっと歌っていたい、歌い終わるのがもったいないと思いました。きっと周りの方々に歌わされてい たのだと思います。聖霊も少し感じていたかもしれません。

  演奏旅行直後の気持ちを少しでもお伝えしたく長々と書きました。重ねて御礼申し上げます。

  どうぞよいクリスマスを!

大森雄治

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ドイツ演奏旅行記

中村誠一

  12月19日(火)午後3時、ライプツィヒからの6時間にわたるバス移動(その間のバスの中で、淡野先生の指導の下クリスマス・オラトリオ全曲の合 唱部分を一通り練習!)を終え、ようやくハイルブロンに到着した。

ON君と私をホストファミリーとして迎えてくれたのは、ハイルブロンから車で約20分のノルトハイムという町にご在住のローゼンベルク夫妻であった。

 ご夫人のローレさんは、バイエルンのミュンヘン近郊のご出身で、ハイルブロン・ハインリヒ・シュッツ合唱団では既に30年以上歌っておられる由だ が、いつも笑顔の絶えることのない方だ。

 ご主人のペーターさんは、ご自身は合唱団には入っていらっしゃらないが、音楽を愛し、またハンググライダーと写真を愛するすばらしい方だ。ペーター さんのお父様はドイツ人、お母様はチェコ人で、ちょうど第二次大戦中のドイツ占領下のチェコでお生まれになった。戦後お父様は一旦単身でオーストリ アに逃れた上でドイツに帰国、その後子供のペーターさんはお母様に連れられて、お母様の母国であるチェコから国境を越えてドイツに渡ったのだとい う。身近な方からナチスに翻弄された不幸な過去をお聞きし、感慨深いものがあった。ペーターさんは、成人された後ハイルブロンの学校で長年英語とフ ランス語の教師を勤められ、最近リタイアされたとのことであった。

 ご夫妻には二人のお嬢さんがいらっしゃるが、既に独立され、それぞれブレーメンとフライブルクにご在住とのこと、クリスマスに娘さんたちとその家族 が戻ってこられるのを大変楽しみにされていた。

 ホスト宅に到着してスープとソーセージのおいしい食事をいただいた後、ON君と私は、ローレさんにノルトハイムの町をご案内いただいた。ノルトハイ ムの中心部は、ホスト宅から歩いて10分足らずのところにあり、庁舎(Rathaus)、教会、公園、図書館(16世紀建造の木組みの建物)等があ る小ぢんまりとした大変美しい町だ。

 ご案内いただいた教会や図書館の中でも、ローレさんはたいていの人とは知り合いのようで、「この人たちは日本から来て、明日一緒にクリスマス・オラ トリオを歌うのよ!」と本当に嬉しそうに私たちを紹介してくださったのが忘れられない。

 さらに、私たちはローレさんに教会関係者の集会所(その集会所の名前は何とクリスマス・オラトリオの中のコラールも作曲したP.ゲールハルト!)に ご案内いただき、クリスマスの集まりのためのお菓子などを用意したご自身のコーナーも見せていただいた。

 私たちはローゼンベルク夫妻宅で二晩お世話になったが、特にローレさんとは、到着日夜の練習から本番までのほとんどのスケジュールでご一緒だった。 ローレさんは、殊のほか今回歌うバッハのクリスマス・オラトリオが好きだとのことで、車の中でも「Jauchzet」をはじめとする合唱部分を本当 に嬉しそうに口ずさんでいらっしゃった。

 2002年春、我々東京ハインリヒ・シュッツ合唱団が初めてハイルブロンを訪問し、ハイルブロン・ハインリヒ・シュッツ合唱団と一緒に演奏会を開催 したときも、ローレさんは合唱団員として参加されておられた由だが、私たちが歌った曲の中で特に、武久源造さんが夭折した息子の大吾くんのために作曲した「神 なお生き給う」(日本語)に強く感銘を受けたとのことだった。本当に素晴らしい作品は言葉の壁を越えて人々の心に訴えかけるのだと改めて実感した。

 12月20日(水)夜、ハイルブロンと東京のハインリヒ・シュッツ合唱団合同による3時間にわたるクリスマス・オラトリオ全曲演奏が終わった後、 ローレさんが、「これまで何度もこの曲を歌ってきたけど、今回が一番素晴らしかった。」と満面の笑みで話しかけてくれたのが、本当に嬉しかった。

 家族を愛し、音楽を愛し、自分の住んでいる町と人々を愛するという人間の本来あるべき生き方を、ごく自然に実践していらっしゃるのが、印象的で、そ して羨ましかった。

 ハイルブロン・ハインリヒ・シュッツ合唱団との交流は、これからも続け、2008年の東京ハインリヒ・シュッツ合唱団創立40周年記念演奏会には、 是非ハイルブロンからもお招きしたいものだと思う。その時は、前回(2004年)はご家庭の事情で来られなかったローゼンベルク夫妻にもご来日いただき、日本の良いところを少しでもご紹介できればと 思う。

画像の説明

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ドイツ演奏旅行記

小西久美子

  長いことドイツという国はなじみの薄い国だったが 今回で随分印象が変わった。心に近い国になったのが嬉しい。

  つい先ごろまで娘の勤務先であった Volkswagen とドイツ・プロテスタントの宗教曲における歌詞・聖書のテキストとして随所に出てくる VOLKS..という言葉が ある日自分の中で一瞬にして結びついたのは 最近の記憶に属する・・・

  いくつかの外国語と長くかかわり続けたにしては 歌詞を生きた言葉として捉えていなかった自分に忸怩たる思いである。

  一週間足らずの過密かつハードな駆け足演奏旅行! だが私には実りの多い旅だった。今回の演奏旅行では 印象深いことをひとつあげれば 最後のハイルブロンに尽きる。

  町の様相もろくに知らない・・公会堂の600人近い聴衆。百人近い向こうの合唱団の中に たった30人にも満たない我々。埋もれそうだった・・・

  だがしかし なんと楽に歌えるバッハだったことだろう! 軽快に楽しく 聖誕を待ちのぞむ喜びに溢れ 同時に十字架を予見して涙し 赦しを感謝する歓喜に包まれ最高にリラックスして歌いながらも 私の中にしきりに浮かんできたのは volks.. の一語だった。

  客席の人々の顔には、紛れもなくひとつひとつ個性があり それぞれがそれぞれの一人として音楽を聴いていた。わが国のクラシック音楽会の場でよく見られる 仮面を被ったような 無表情な人はまずいなかった。明治以降 連綿とした西欧文化輸入と移植 結果のひずみ 大きな輸入超過を脅迫観念とした心理的不均衡 文化価値概念のアンバランス 多くを語るまでもない。

  だが 人は鼻の先で疑わしげに私を見るにしても・・確かにあの夜の演奏会は 私はそういうものから無縁だった。百人近いドイツ人の真っ只中、両隣のおせっかいドイツ婦人に心中辟易しながら 笑みを浮かべおぼつかないドイツ語でダンケを連発し でもそれはリハのみで 本番はまことに自由! 気持ちのいい・・・いいとしか形容できない バッハ クリスマスオラトリオ              

                                 

                                 

ハイルブロンの舞台

  さして上手いとも思えない、オケの後ろのヒナ壇で いつになく お気楽な状態で この歌を歌いながら 私が肌に感じていたものを敢えて言葉にすればこうなるだろう。

  「ああ ドイツの人たちは こうしてこの歌を 何百年も クリスマスが近くなると 上手も下手も 寄り集い 歌い継いで来たのだ。寒く厳しい冬・・・その先にある光 希望 罪の赦し 約束の幼子の誕生・・・それがクリスマスだったのだ。バッハなどの現れる 遥か昔 民族の遠い血脈の記憶・・・人々はそれと知りもしないで黙々と それを受け渡していく。この無限の連鎖の ある一点に 一人の天才が現れ 形にする。真の芸術作品はすべて この連綿たる受け渡しの途上に咲いた花である。

  そして今夜 私達は今こうして歌っている。国や人種にかかわりなく 楽しく豊かに歌っている。多少下手だとして それが何ほどの傷だろう。本物だけが歴史の時間を耐えると 我々は単純に思いがちだ。傲慢のそしりを免れないかも知れない。

  一人の天才の周囲にいったいどれほど多くのアノニムがいただろう。彼の下で涙を呑んだ二流の芸術家の周囲にも また どれだけの人々がいたことか・・・当時盛名を馳せながら埋もれた 我々の知らない サリエリの兄弟たち その回りに 気の遠くなる数の人々・・・ それこそが 歴史を支えてきた人たちなのだ。VOLKS.. そのものなのだ。傑出した天才だけで 歴史が書かれるわけではない という平凡な真理に 短いが凝縮した旅を終えた今 ふとたどり着いた。それはまた 思いもかけず安寧な心地よい安心感をもたらしてくれている。

  ライプツィヒ 聖トマス教会の あっけないほどの印象も 個人的には ある一種逆説的な偶像破壊の働きをして バッハが雲の上から おりてきた思いだった。「あんな凄い曲 しこたまかいて・・・でも あんたも只のオッサンだったんだよね!」と 乾杯したい気分だ。

  ともあれ VOLKS ISRAEL の言葉をまつまでもなく 民族を固有性でくくれば 普遍には通じない。私があの舞台で 肌で感じた VOLKS..は ドイツや日本 パレスチナ ということではない。遥か昔から遠い未来まで 人間一人一人の中にある 善 希望 よきもの それが存在する限りは それがそのまま普遍への最短の直通道路になるはずだ。世界の浜の真砂の 一粒として あの舞台で歌ったのだという思い出が残った。

  淡野先生 また支えて下さった多くの人たちに感謝します。ありがとうございました。

以上。


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