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ムシカWeb通信


■ 2010/08/22 驚いたのなんのって・・・

 8/21(土)本郷教会に着いてふとみると、チェンバロを弾くとばかり思っていた武久さんが、フォルテピアノの調律をしているではないの!もう使用楽器についての議論をしているひまはないので、ここは黙って練習に。

 しかし問題はほかにも発生。私としては珍しく本番一日前にプログラムを仕上げて持って行きました。チェンバロの音が響くと信じ切った私の書いた原稿には「チェンバロ」なる単語が少なくとも十回は使われておりまして、それが鳴らないとなると・・・。単語を入れ替えるだけでは済まない「さまざまなこと」が起こるのです。

 練習を終え、家に飛んで帰った私は修正作業に入り、なんとたった今完成です。コピー機が仕事をしてくれている間にこの原稿を掲載し、昨日このブログでお知らせした内容に「変更」が生じたことをお伝え致します。お騒がせして本当に申し訳ございませんでした。皆様、どうか善い日曜日を! そしてもしお時間とご興味がおありでしたら、どうぞ杉並区上荻の本郷教会へ! 午後5時開演です。                                                                    

 プログラムを巡って

 〜シュッツ/バッハ/メンデルスゾーン〜

 淡野弓子

 いつの時代にも‘当世風’と‘古きに尋ね、本質を究める’といった二つの動きが見られますが、今夕取り上げられた三人は後者の道に生きた人々です。時代遅れ、という揶揄をものともせず、音楽とは何か、を求め、人の脳を超えた音の律に従って創作を進めました。

 シュッツは死の前年に詩編119篇全22章176節を11曲の2重合唱にまとめ《白鳥の歌》としましたが、その中の1節「あなたの定めはわが旅の家でわたしの歌となりました。」(Ps.119-54)は、シュッツの生涯をひと言で語っています。シュッツもまた自分の葬儀に際し、この詩節を説教のテーマとしてくれるようにと言い遺していました。

 バッハは人々の心が神中心から人間中心へ移ろうとしていた「啓蒙主義」の風を無言で退け、時代の風潮に従って変わって行くカンタータのテキストから離れ、晩年は自作の集大成、例えば《ロ短調ミサ曲》や抽象的な音のみの世界である《フーガの技法》の作曲・・・これは聴いて面白いとか美しいという音楽を超えて、音と音はどのような組み合わせと進行が可能か、を追求した作品で「秘教的手仕事」と表現した音楽学者もいます・・・に携わっていました。

 メンデルスゾーンが中世やルネサンスの音楽に強い興味を抱き、それに学び、シュッツやバッハの用いた音楽修辞学を彼も縦横に用いてオラトリオ《パウロ》や《エリヤ》を作曲しました。彼の1歳下にはシューマン、ショパンがいたこと、そして彼らの音楽を思い浮かべてごらんになれば、メンデルスゾーンの音楽がいかにバッハやヘンデルの方を向いているかがお解り戴けると思います。かといって彼はバッハやヘンデルを直に手本にしたのではありません。偉大なる先人が行きついた「音楽の根源にある律」をメンデルスゾーンも肯定し、土台をそこに置いて創作したのです。今夕は1830年ボンで出版された《3 Kirchenmusiken 三つの宗教曲》の第1曲を最初に第3曲を最後に歌います。両方ともコラールに基く合唱曲です。

 メンデルスゾーン《深き苦悩の渕より》

 この作品は五部分からなるモテットで第1曲と第5曲はそれぞれの和音付けは異なりますが、シンプルな四声体のコラールです。第2曲は冒頭の旋律が四声のフーガとなります。合唱曲のフーガでは、各パートの言葉が追い掛け合うので、同時にさまざまな言葉が聴こえ、意味の把握が難しいのですが、ここぞという言葉をホモフォニックな和声で同時に聴かせる「ノエマ(Noema=名前)」という技法によって、大切な言葉を表現します。ここでは「erhör=聴きたまえ」「Rufen=叫び」「sie öffnen=御耳を開き給え!」との言葉がノエマ、そして最後も四声同時に「 Wer kann, Herr, vor dir bleiben? 誰が一体あなたの許に?」が一語2分音符でしっかりと歌われます。

 第3曲は、これまでのヘ短調とは打って変って変イ長調8分の3拍子となり、テノール・ソロとオルガンによって抒情的な美しい旋律が歌われます。ホモフォニックに唱和する合唱が後を引き継ぎます。

 第4曲はソプラノが定旋律、下三声はソロ・アンサンブルでフーガという展開です。そして最後は再び四声体のコラールで終ります。

 シュッツ《シンフォニエ・サクレ II/III》より3つのコンチェルト

 シンフォニエの名の通り、器楽と声楽の恊奏曲ですが、器楽は各パート1人ずつという室内楽風の作品です。楽器の組み合わせによって生まれる音色が、歌われる言葉の内容を表現します。3曲ともテキストは詩編からのものですが、最後の《Es steh Gott auf 神は立ち上がり》の原曲はモンテヴェルディのマドリガルで、シュッツがイタリア語で書かれた音楽にドイツ語を当て嵌めるという試みから生まれた一曲です。

 シュッツ《ドイツ語マニフィカト》

 ルカ伝第1章47-55に述べられている「マリアの賛歌」がテキストです。ラテン語では‘Manificat anima mea 私の魂は主を崇める’と始まります。シュッツにはこのラテン語マニフィカトも残されていますが、こちらは多くの楽器とともに演奏される非常に華やかな作品です。

しかし、シュッツの生涯の課題はイタリアで学んだラテン語やイタリア語による、即ち、ラテン語の文法によるモテットのスタイルをドイツ語のそれに移し替え、ドイツ語による音楽を確立することでした。彼は見事にその作業を成功させ、シュッツのドイツ語モテットはその後400余年に亘るドイツ音楽の堅固な礎となったのです。

 1668年から1671年にかけて作曲された詩編119篇に、詩編100篇とこの《ドイツ語マニフィカト》が加えられ、《白鳥の歌》として遺されました。

 シュッツの音楽には、人の動作、気持ち、情景を現す一つひとつの言葉が、その場で実際のものとして動きだし、そこに生き始めるといった特徴があります。この《ドイツ語マニフィカト》も例外ではありません。イエスを身ごもったことを知らされ、全き従順のうちにそれを受け入れ、全身全霊で主を崇めるマリアを、若き日にイタリアで、恩師ジョヴァンニ・ガブリエリから学んだだ複合唱のスタイルで、奥深く、繊細に、初々しく描き切った老巨匠! シュッツは86歳でした。

 J.S.バッハ カンタータ第35番《霊と心は驚き惑う》

 本日8月22日は三位一体の祝日後第12日曜日ですので、まずはバッハがこの日のために書いたカンタータを選びました。このカンタータが初演された1726年の三位一体の祝日後第12日曜日は9月8日、バッハがライプツィヒのトーマス・カントールとして毎週のカンタータ制作に入って4年目のことでした。

 1725年降誕節から1727年の四旬節前第三日曜日(2月9日)までの14ヶ月間のカンタータが第3集としてまとめられていますので、その中の1曲ということになります。この第3集には独唱カンタータが多いこと、また以前の器楽曲が転用されているケースが多いことが特徴です。

 カンタータ35番も、原曲は現在最初の9小節のみを残して消失したチェンバロ協奏曲(BWV1059)であろうと推測されており、カンタータの第1曲が原曲の冒頭楽章、第2曲が第2楽章、第2部の冒頭の曲は原曲の最終楽章であろうといわれています。さらに、ソロ楽器はオーボエ? いやヴァイオリンだ、などとの主張も散見します。

 35番の器楽編成は本来ならば、2本のオーボエにオーボエ・ダ・カッチャ、それに弦楽という編成ですが、今回は奏者の都合により、オーボエ・パートも弦楽で演奏致します。また、オブリガート・ソロ楽器はすべてオルガンと指定されていますが、今夕はオルガンに加えてフォルテ・ピアノとヴァイオリンが登場します。失われたチェンバロ協奏曲が、ここで原曲+アルファの魅力を湛えて生き返ります。

 さて、そのような器楽のいきさつも大切ですが、カンタータの本命はなんといっても「言葉」、それを担うのはアルトです。この日の福音書は耳が聴こえず口の回らなかった人が、イエスによって耳が開かれ、口のもつれが解け、はっきりと話せるようになった、という奇跡を伝えます。オルガン・コンチェルトの姿をとるシンフォニアに続く第2曲では器楽が麗しくももの悲しげなシチリアーノを奏し、神の為した奇跡に心と霊が混乱している、と歌うアルトに、フォルテピアノは鮮やかなパッセージで奇跡の業の見事さを奏で、時にアルトと対話します。‘声も出ず、おし黙るのみ’、といった内容を歌いなさい、とアルトに無理強いするバッハは、「taub=聴こえない」「stumm=黙する」との言葉のあとで全オーケストラを休止させ「沈黙」を表現します。続く第3曲のレシタティーヴォでは、アルトとコンティヌオのみで「語り」に徹し、前後のアリアと対比させています。

 第4曲は初めて現れる長調の曲です。通常はオルガン・オブリガートですが、今回はそのパートをヴァイオリンが奏で、そこにアルト、コンティヌオが加わった三声が、「神の業」を讃え「神の愛」に感謝を捧げます。

 第2部冒頭に置かれた第5曲は原曲と看做されるチェンバロ協奏曲の終楽章であろうことはすでに述べましたが、今回はフォルテピアノで演奏します。レラソファソラ、ミシラソラシという上から下に勢いをもってやってくるモチーフがほとんど絶え間なく全体を支配し、上からの力、神の熱誠といったものを彷彿とさせます。

 第6曲のレシタティーヴォは第1部と同じくレシタティーヴォ・セッコで語りに徹し、「Hephata=開け!」と言われたイエスの言葉や「耳に差し込まれた恵みの指」「舌に触れられた御手」など、マルコ伝で語られたイエスの奇跡の業がはっきりと言葉によって確認されます。

 いよいよ終曲です。C-Dur=ハ長調という神を歌う時の象徴的な調性と8分の3拍子という、これも天上界を現す「3」という数字に守られて、オルガンが3連符の華やかな装飾的パッセージを奏でるなか、アルトは「神の許に生きたい」「時はもうそこに」と歌います。「Ein fröhliches Halleluja 喜ばしきハレルヤを」「(Mein martervolles Leben) enden! (我が苦しみに溢れし生涯を)閉じさせ給え!」との言葉には3連符のコロラテューラが用意されています。

 メンデルスゾーン《我ら生の只中にありて》

 冒頭に歌った曲と同じく、コラールの歌詞と旋律をパラフレーズした作品です。歌詞は一連14行で、後半の7行が「Heiliger Herre Gott 聖なる主なる神よ」で始まり「Kyrie eleison キリエ エレイソン」で終るほぼ同じリフレインとなっています。SATBが各二声部に分かれた8声のモテットで、この8声部をさまざまに組み合わせて、テキストの主張を際立たせたり、音色を変化させたりしながら、誰もが「死」と隣り合わせに生きているという恐ろしくも厳しい現実が歌われます。第一連と二連では「キリエ レイソン 主よ、憐れみ給え」をナイアガラの滝のような勢いで繰り返し、恐怖を訴えますが、最終段階では徐々に鎮静し、最後のハ長調の和音が神に抱かれた安堵、救われた喜びを伝えます。

 今夕のオーケストラには我が国の楽器製作者の手になるピリオド楽器が何台も登場します。谷口勤氏製作のバロック・ヴァイオリン三挺、バロック・ヴィオラ二挺、深町研太氏製作のフォルテピアノがそれです。これらの楽器が生まれ、それぞれの奏者の力で音となるまでの経緯をここで語ることが出来ないのは残念ですが、ここから先は全てを「音」に委ねたいと思います。 [2010・8・22]


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