長らくのご無沙汰お許し下さい。今夕6時より上荻の本郷教会(東京都杉並区上荻4-24-5)においてSoli Deo Gloria<賛美と祈りの夕べ>vol.251 が開かれます。バッハの意気軒昂な時代、1725年のカンタータ2曲が演奏されます。たった今、解説が出来上がりましたので、一足早く皆様にお届け致します。非常にユニークな楽器編成や左手を全く使わないナチュラル・トランペットもお聴き戴けます。演奏者はスケジュール欄に。是非お出掛け下さい。
バッハのカンタータの伝えるもの
KANTATE zum Sonntag Exaudi BWV 183
Sie werden euch in den Bann tun<人々汝らを除名すべし>
初演:1725年5月13日 ライプツィヒ
KANTATE zum Himmelfahrt Sonntag Exaudi BWV 128
Auf Christi Himmelfahrt allein<ただキリストの昇天にのみ>
初演:1725年5月10日 ライプツィヒ
バッハの働いていたライプツィヒの教会では復活祭を日、月、火と三日間祝い、そののちに来る復活祭後第1主日を「Quasimodogeniti 新しく生まれた乳飲み子のように」、同第2主日を「Misericordias Domini 主の良き賜物は地上に満ちあふれている」、第3は「Jubilate すべての民よ、神をたたえよ」、第4は「Cantate 主に向かって新しき歌を歌え」、第5を「Rogate 祈れ」、その週の木曜日が昇天祭、第6の日曜日を「Exaudi 聞いてください、主よ」と呼びます。この名称は Rogate を除き、すべてその日の入祭詩編の答唱の初めの言葉に由来するとのことです。
今年の昇天祭は5/21(木)、Exaudi の日曜日は5/24 でしたので、今夕は昇天祭のカンタータ第128番と Exaudi のカンタータ第183番の二曲をお聴き戴きたいと思います。暦の順序からいうと128→183ですが、音楽的には逆に聴いていったほうが収まりが良いようですので、今回は第183番から演奏致します。
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Sie werden euch in den Bann tun<人々汝らを除名すべし> BWV 183
最初はいきなりバスのレシタティーヴォから始まります。そしてこの第1曲の器楽の組み合わせにもびっくりさせられます。オーボエ・ダモーレ2声、オーボエ・ダカッチャ2声に通奏低音ですが、このオーボエ属のなかでも、中音から低音へかけての渋目の音色が4声で鳴り出した時の、いささか異様な雰囲気に驚かされます。バスは何を語ろうとしているのでしょうか。
「Sie werden euch in den Bann tun」とは「彼らはあなたがたを追放するだろう」という意味ですが、これはヨハネ16;2に記されているイエスの言葉で、さらに「es kömmt aber die Zeit, wer euch tötet, wird meinen, er tue Gott einen Dienst daran. 時が来る。あなたがたを殺す者が、自分は神に仕えているのだ、と思っている時が」と続きます。このような不条理、即ち、キリストに身を捧げ、礼拝を重ねて来た人々が、ある日、全く逆のことを考えている人々にあっさり追放されてしまう、ということが起こる、というイエスの預言は弟子達に衝撃を与えずにはおきません。この耳を疑うような内容を、器楽のハーモニーはまたとない、通常では滅多に聴くことのない音色で表現しています。非常に短いのも特徴です。
この日の聖書は第1ペトロ4;8-11とヨハネ15;26-16;4です。第1ペトロの方は、それぞれの賜物に応じて、互いに仕え合いなさい、とのペトロの言葉、ヨハネによる福音書の方は、十字架を前にしたイエスの、長い説教の一部です。ここでは聖霊、即ち真理の霊である弁護者について述べられ、続いて第1曲のテキストに使われている言葉へと進みます。このカンタータの台本作家はマリアンネ・フォン・ツィーグラーという女流詩人のものですが、彼女は第2曲で、先のイエスの言葉に応答する弟子の気持ち「恐れず進みます」を詠います。バッハはこのアリアのオブリガートにヴィオロンチェロ・ピッコロという小型のチェロを登場させ、一筋縄では行かない音型を弾かせるのです。ヴィオロンチェロ・ピッコロは16分音符の連続でぐんぐん進み、その動きは著しく鮮明で呵責のないものです。覚悟を決めたはずの弟子の、ちょっとしたためらいや怖れをバンバン吹き払うかのようです。また、テノールの音域よりちょっと低目のチェロ・ピッコロを伴走させることによって、人間の脚の部分に活力を吹き込むかのようです。実に後半、「Denn Jesus' Schutzarm wird mich decken なぜならイエスの守りの御腕がわたしを覆い」の箇所では、チェロ・ピッコロはそれまでの音型を停止させ、それまでひたすらにテノールを支えることに全神経を使って来た通奏低音と同じリズムとなって、3小節半に渡って、共にゆっくりと進むのです。
このような解釈はしかし、この曲の一面を伝えるものではありますが、全てではないようにも思います。「Ich fürchte nicht des Todesschrecken 死の恐怖に怯えてはいない」と歌うテノールの足下でヴィオロンチェロ・ピッコロの16分音符の連続は海の藻や野の茨といった、膝のあたりに絡み付くなにものかを表現しているようにも感じられます。同じ音型で正反対のものを表現するのが得意だったバッハは、励まし激励する人が同時に脚を引っ張る人にもなることを暗に言いたかったのかもしれません。
第3曲のアルトのレシタティーヴォでは再度不可思議な楽器編成となります。冒頭のレシタティーヴォの4本のオーボエ属に弦楽の加わったもので、和音に終始する弦楽に対し、2声のオーボエ・ダモーレと2声のオーボエ・ダカッチャはそれぞれ同じ音型で呼び交します。アルトは正にその音型で「Ich bin bereit 用意は出来ています」と歌います。全てを主に委ねます、という決意が、初めから終わり迄この中低音域の木管になぞられることによって、この弟子の決心が全地に広がって行くような表現となっています。
続く第4曲はこのカンタータでは初めてのソプラノが舞曲風のアリアを歌います。また、なんとオブリガート楽器としてオーボエ・ダカッチャが2本ユニゾンで登場し、32分音符の華麗な楽句を次から次へと奏でます。
オーボエ・ダカッチャと第1ヴァイオリンによる最初の一瞬の光芒のような32分音符の音型は、ソプラノの‘höch-ster いと高き’、の höch-、‘heil-ger 聖なる’ の heil- に当てられています。オーボエ・ダカッチャは後に従う者を待つかのように、途中長い持続音を伸ばし続け、その後32分音符は長いコロラテューラ風のパッセージに入ります。そこには‘wandeln 歩む’の言葉が使われています。
このアリアと第2曲目のテノールのアリアはいずれも中・低音域の楽器がオブリガートとして用いられ、その珍しさから、「聴き耳をたてさせる」ということに成功しています。この日が‘Exaudi 聞き給え’であることへのバッハのアイディアかも知れません。また、‘主は至る処におられる’をこのような意表をつく形で示したかったのかも知れません。いずれにしろ、進もうにも進めなかった第2曲とは打って変わったこの第4曲は‘歩く’を超えて‘踊る’に突入、恐れることなく全てを主に委ねた弟子の、幸いなる魂が宙に舞います。
第5曲のコラールでは‘聖霊’の教えに従った祈りは必ず主に聞き届けられ、どこまでも高く昇る、と歌います。
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Auf Christi Himmelfahrt allein<ただキリストの昇天にのみ> BWV 128
128番はその題名<ただキリストの昇天にのみ>通り、昇天祭を祝うカンタータです。実はこの時期、1724年のライプツィヒにおけるバッハはカンタータ制作第2年目に入り、初年度とは異なったコンセプトで作曲を進めようとしていました。それは、年間の台本を一貫性のあるものとし、その台本を音楽化するにあたって自ら規則を定め、統一性、均質性を図ることでした。
当時テレマン、シュテルツァー、ファッシュなどという錚々たる作曲家はそれぞれの年間シリーズを作成していましたが、バッハにこのようなチャンスが与えられたのは、1724年の三位一体の祝日後第1日曜日(6/11)以後のことでした。バッハは、この1724/6/11から1725/5/27(三位一体の祝日)までのきっちり1年分、計55曲の演奏スケジュールを発表します。この1年間のバッハの目標は《コラール・カンタータ》を作曲することでした。
バッハの書こうとした《コラール・カンタータ》は、教会の賛美歌(コラール)に基くものであり、その賛美歌の最初の連が冒頭の曲、最後の連が終曲であること、賛美歌は教会暦に従ったものであることなどでした。バッハはすでに1725年の3/25受胎告知の祝日までの歌詞を持っていましたが、これらの作詞者であろうとされている聖トーマス学校の副校長アンドレアス・シュテーベルが急死、この先、4/1から4/15まで5曲の歌詞台本にバッハは四苦八苦します。やっとライプツィヒの前市長ロマーヌスの令嬢であったクリスティアーネ・マリアーネ・フォン ツィーグラーの台本で書こうと決心し、詩節に手を加えながら九つのカンタータが出来上がります。
この9曲は4/22 Jubilate から5/27三位一体の祝日までのものですが、今日演奏する1725年の昇天祭(5/10)とExaudi (5/13)はこの期間に含まれ、従ってこの2曲はバッハの企画力、創作力、実行力の最も活発な時期のものということが分かります。
128番のもととなる聖書箇所は、使徒言行録1;1-11とマルコ16;14-20です。この記述をもとに書かれたコラールの歌詞が用いられていますが、最初のコラールと最後のコラールが同じ詩人のものではない、という例外に属する《コラールカンタータ》です。
第1曲に示されたコラール旋律の扱い方はとても凝ったものです。コルノ I 及びヴァイオリン I とオーボエ I による16分音符のパッセージの中に、散弾のようにコラール旋律が嵌め込まれているのですが、その節がゆっくりと明瞭に聴こえて来るのはやっと18小節の後半、ソプラノのパートからです。器楽の前奏を聴く限りではメロディを聴き取ることが難しいのです。バッハは「キリストの昇天」を音で描くに当たって、そこに存在しているにも拘わらず、見えたり見えなかったり、聴こえたり聴こえなかったり、ということを言って見たかったのではないでしょうか。またこの曲ではホルン2本を始め、各弦楽器にはオーボエ、オーボエ・ダモーレ、オーボエ・ダカッチャが重ねてあり、「聖霊・・・ルーアハ(息、風)」を象徴するような「風」の楽器群の柔らかで暖かい音色が惜しげもなく撒き散らされています。
8分休符のあとにいきなり弦楽が鳴り出す最初の出だしは、予期せぬことが起こった驚きを感じさせ、その後を追うように次々に各パートが出て来るのですが、これは歌詞の最初の2行で語られる「Auf Christi Himmelfahrt allein ただキリストの昇天にのみ Ich fahre meine Nachfahrt gründe わたしが御跡を慕うわけがあります」の‘御跡を慕う’を現すのでしょう。
第2曲はまことに短い簡単なセッコ・レシタティーヴォです。大意は、「準備は調いました。わたしを苦しみのこの世から連れ出して下さい。そこで私は浄められ、神を間近かに見るでしょう・・・・・」というものです。バッハは Jammer 悩み’には減5度、‘Pein 苦痛’には増4度といった各単語にふさわしい音程を与えています。これはルネサンスの頃から作曲家達が用いて来た定型ともいえる手法で、象徴というよりは遥かに具体的に、聴く人の身体そのものに影響を与えます。また「Angesicht zu Angesicht 顔と顔を突き合わせて」という箇所も16分音符で細かく動き‘間近か’をリアルに感じさせます。
このレシタティーヴォとは全く対照的な第3曲が始まります。トランペットに弦楽、バスに通奏低音という編成で、ニ長調3拍子です。「主なる神キリスト」を象徴する音楽的三条件がすでに調えられています。それは王を現す「トランペット」、神=Dominusを現す「ニ長調 D-Dur」、神のリズムである「3拍子」です。第2曲は「準備は調いました」と始まりましたが、この象徴的三条件は第3曲を動かす具体的な「準備」とも言えるでしょう。
本日のラッパはナチュラル・トランペットです。指穴で音程を取るのではなく、1本の管にスーッと息を通すだけで、この難しいパッセージを吹いてしまうのです。右手はラッパを支え、左手は腰に。これぞ「神の律」のみで進む世界です。バッハも喜ぶことでしょう。
バスはトランペットと掛け合いで進み華やかなコンチェルタントを展開します。バスが「ich werd einst dahin kommen いつの日か彼の岸に着くだろう」歌うとそれまでの動きが 嬰ハの6の和音に変わりレシタティーヴォとなります。言葉は「wo mein Erlösser lebt 私の救い主が生きておられる所」へと進み‘lebt 生きておられる’では嬰ヘ短調に。このコンチェルトからレシタティーヴォ、そして転調という大きな変化が神の座にいます主の姿と、それについていろいろと考えようとする人間との大きな差を示し、ついに「So schweig, verwegner Mund 黙せ、思い上がった口よ」のフレーズでバスの歌は文字通り沈黙し、器楽の前奏の部分が繰り返されて終ります。
第4曲はアルトとテノールの二重唱です。まずこの中音域の地味な音色がこの曲の‘謙遜・・・主の全能を解明することは誰にも出来ない’を現し、この2声は‘掛け合う’のではなく‘付き従う’といった型で重唱します。オブリガートはオーボエ・ダモーレでこの楽器の暖かい愛に満ちた音色がこの内省的な歌を包みます。音画として美しいのは後半アルトにもテノールにも出てくる‘Sterne 星’に付けられた16分音符のパーセージでしょう。
第5曲終曲は、コルノ2声を伴ったコラールです。第1曲で述べたように、最初のコラールと同じ詩人のものではないのですが、バッハはこの作品を自身のコラール・カンタータとして分類しています。キリストに全てを委ね共に天に上げられた信ずる者はイエスの右に置かれ、永遠に主の栄光を見るだろう、と歌います。「キリストの昇天」とは、単にキリストに起こった事象ではなく、広く深く永遠に人間たる我々に拘わることと知らされます。 2009/5/30 たんの・ゆみこ